2014年10月31日金曜日
『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。全59品。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。
信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成され、江戸時代には江戸をはじめ各地で読み物として親しまれた。
1582年(天正10年)に武田氏は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡したが、織田信長の死後、徳川家康が甲州を支配するようになり武田遺臣を用いる方針を取ったため、甲州流軍学が盛んになった。本書は甲州流軍学の聖典とされ、江戸時代には出版されて広く流布し、『甲陽軍鑑評判』などの解説書や信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代期を抽出した片島深淵子『武田三代軍記』なども出版された。江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。
刊本には古写本を底本とした酒井憲二『甲陽軍鑑大成』や明暦年間の流布本を底本とした磯貝正義・服部治則校注『甲陽軍鑑』(人物往来社、1965年)などの諸本がある。
『甲陽軍鑑』の成立は、『軍鑑』によれば天正3年(1575年)5月から天正5年(1577年)で、天正14年(1586年)5月の日付で終っている。甲陽軍鑑の成立時期は武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあたり、『軍鑑』に拠れば信玄・勝頼期の武田家臣である春日虎綱(高坂昌信)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。
春日虎綱は天正6年に死去するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後、天正13年に亡命先の佐渡島において死去するまで執筆を引き継いでいる。翌天正14年 にはこの原本を虎綱の部下であった「小幡下野守」が入手し後補と署名を添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本が近世に刊行されたものであると考えられている[1]。
さらに、これを武田家の足軽大将であった小幡昌盛の子景憲が入手しさらに手を加えて成立したものと考えられており、『軍鑑』の原本は存在していないが、元和7年の小幡景憲写本本が最古写本として残されている。景憲は『甲陽軍鑑』を教典とした甲州流軍学を創始し幕府をはじめとした諸大名家に受け入れられており、この頃には本阿弥光悦ら同時代人も『軍鑑』に触れたことを記している。
近世には武家のみならず庶民の間でも流布するが、実証性が重視される近代歴史学においては『太平記』『太閤記』などの編纂物と同様に、基礎的事実や年紀の誤りから歴史研究の史料としての価値が否定され、小幡景憲が春日虎綱の名を借りて偽作したものであると見なされた。一方で、国語学者の酒井憲二は1990年代から『軍鑑』に関する国語学的検討を行い、語法などの分析から江戸時代以前の用法が見られることから再評価が提唱されている。
軍鑑は江戸時代から合戦の誤りなどが指摘されていた。肥前平戸藩主の松浦鎮信の著で、元禄9年(1696年)頃の成立の『武功雑記』[2]によると、山本勘介の子供が学のある僧となり、父の事跡を高坂弾正の作と偽り甲陽軍鑑と名付けたつくりものと断じている。湯浅常山の『常山紀談』にも、『甲陽軍鑑』虚妄多き事、と記述されている。
明治時代以降は実証主義歴史学が主流となり、1891年(明治24年)には田中義成「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)において文書や記録資料との比較から誤りの多さが指摘され、甲陽軍鑑は高坂弾正(春日虎綱)の著作ではなく江戸初期に小幡景憲が武田遺臣の取材をもとに記した記録物語であるとした[3]。
戦後の実証的武田氏研究においても文書や『高白斎記(甲陽日記)』『勝山記』ら他の記録資料や対照からも誤りが多いことが指摘されていた。一方で、近年は酒井憲二の国学的研究を嚆矢に、平山優、小和田哲男、黒田日出男らが実証的研究の立場から軍鑑を再評価する動きもある。
甲陽軍鑑においては勝頼期の武田家に関して跡部勝資・長坂光堅ら勝頼側近が専横を極め、天正3年の長篠の戦いに おいては跡部・長坂らが合戦に反対する譜代家臣らに対し主戦論を主張し大敗を招くなど、新興側近層と譜代宿老層の対立構図として武田家の事情を記し、勝頼 や勝頼側近について不当に貶められていると指摘されている。例えば跡部勝資・長坂光堅は武田家の滅亡に際し勝頼を見捨てて逃亡したとしているが、『信長公記』『甲乱記』など他の記録資料によれば彼らは勝頼に殉じて自害したと記している。
『甲陽軍鑑』の記される信玄死去の三年秘匿や勝頼嫡男の信勝元服に際した勝頼隠居の可能性などは文書上からも認められ、また信玄後期から勝頼期には 武田領国の拡大に伴い譜代家老は城代として領域各地に赴任し、当主側近には跡部勝資ら側近層が常駐し彼らは朱印状奉者を独占的に務めていることも指摘さ れ、具体的逸話の信憑性に関しては慎重視されるものの『甲陽軍鑑』の記す新興側近層と譜代家老層の対立構図などは武田家の実態を反映している可能性が考え られている[4]。
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