2014年10月22日水曜日
「茶の湯が衰退したとき、その再生をかけてさまざまの試みがあったことは前に記した。その一つは、茶の湯は役たたずの遊びではなく行儀作法の一助となる 礼法の道である、という主張だった。それを女性の教育のなかに取り入れる人びとが出てくる。跡見花蹊(1837-1926)をはじめ女子教育にかかわる人 びとである。花蹊は、女学校で行われる礼法教授が現実にはあまり役に立たぬと考えた。たしかに武家儀礼を基本とする小笠原流などの当時の礼法は、近代的な 生活様式のなかでは若干問題があっただろう。花蹊にいわせると、作法の稽古よりは茶の湯のほうが、実際的であった。 学習院女子部でも明治40年のカリ キュラムを見ると、「立礼、座礼、挿花、点茶」が含まれており、はやり明治末年の京都の女学校などを見ても、茶儀科がおかれて盛んに茶の湯教授が行われて いたことがうかがえる。」(注1)
跡見開学のときの授業は9科目。国漢文、算術、和歌、習字、絵画、裁縫、筝曲、点茶、挿花です。これは時の明治政府の方針に必ずしも添った科目ではありませんでした。
「文明開化を唱える維新政府は伝統文化に対してはなはだ冷淡だった。周知のように、近代的な教育が始まったとき、その教科のなかに伝統文化は取り入れら れなかったのである。音楽は西洋音楽一辺倒となり、舞踊や茶・花道を教科に含んだ学校教育はごく一部の学校を除いて採用していない。」(注2)
跡見の点茶、挿花は父重敬が自ら教えていました。「花蹊は一体に趣味の多い方で・・・生花にも趣味を持って居ったが茶の湯は子供の時分から習ったので特に大好きであった。」(注3)
明治8年1月、当時36歳の花蹊は女子教育の中に意識的に茶道を取り入れたのです。京都女子大学教授の籠谷真智子さんによれば、「学校茶道としては、こ れが初例であろう。」(注4)また公立女子校として一番早くに茶道を始めたのは跡見に数年遅れて京都女子校であったそうです。
花蹊は跡見開校以前に京都で塾を経営していましたが、それは父が姉小路家に仕えたため、その私塾という性格もありました。それで開校時の生徒の多くは、華族はじめ上流階級の子女であったのですが、女子教育に茶道教育は欠かせないということに早く気づいたのでした。
[出典]
http://blue-terra.jp/news/news2013-1.html
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