2014年10月27日月曜日



古武道とは?
では、その役に立つ古武道とは一体何だ?
そのまえに、古武道の「古」を取り除き、武道とはそもそも何なのか、の定義が必要だ。
基本的に武道は、自分の生命を呈して守らなければならないものを守る、その為に強くなければいけない、という必然を伴ったものである。だからこその技術であり、それを研鑽した突き当たりに、この本でいう達人伊藤一刀斎等がいるのだ。
そして、その戦いにおいては三つの基本的原則がある。1-敵は一人か複数かは決まっていない、2-敵は何時攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という三つだ。
この原則から工夫を重ね編み出された戦う術、それを任意に取り出し、名前を付けたものが「技」だ。その取り出し方の違いが流派の違いであり、それぞれの宗家の世界観・身体観の違いである。
またその技には流派を問わず、二つの重要な要素が含まれている。その一つは、相互に離れた場所から相手の攻撃の為の意志の変化、意識の変化に気づき行動を起こせる、という要素。その一つは、相互に武器あるいは身体が接着した状態での、相手の攻撃の為の意志の変化や意識の変化に対する気づきと行動である。
目的は二つとも同じなのだが、相互が接着していない、と相互は接着している、という違いであり、共に相手の攻撃の為の意識の変化・意志の起こりを察知する為のものである。
もちろん、この二つの要素は、三つの基本原則をクリアする為のものだ。
これらの三つの原則二つの要素から編み出されたものが、現代において役に立つのだ。逆にいえば、この原則や要素から編み出されていないものは役に立たない、ということになる。
もう少し違う角度からいえば、これらの原則や要素が含まれていないのが、現代の格闘競技、スポーツ競技である。
例えば、K-1のリング上で、突然刃物は出さない、剣道の試合で相手のチームの選手が乱入し、身体に直接危害を加えることはしない、空手の試合で金的だけを狙ったり、目を潰すことはしないし、誰も二人の試合に乱入しない。
たとえ試合で負けても、仇討ちということで闇討ちや食べ物に毒を混入させたりしない。
というルールの上で成り立っているのがスポーツ競技で、これらのルールがない上に、生命そのものを賭けているのが武道だという違いである。
つまり、武道の三原則がないのがスポーツ競技だ。しかし、誤解しないように、ここで言っているのは違いであって、どちらが良いか悪いかを決めているのではない、ということを。
  戦いの三原則から達人が生まれた
これらの原則や要素が生まれた時代、それはいわずと知れた戦国時代だ。その戦国時代にあった武技・武芸・武術を「古武道」と呼ぶのである。
しかし、これらの原則や要素を満たしたのは、宮本武蔵や伊藤一刀斎という武道史の中のごく僅かな達人以外にはいなかったのだ。
1- 敵は一人か複数かは決まってない、2-敵はどう攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という三つは残念ながら、単純な運動論、身体操作ではクリアすることは出来ない。
つまり、体力にものをいわせ、体格にものをいわせ、生まれ持った身体能力だけではクリアできなかった、ということだ。
敵は目の前にいる人間だけだと思っていたら、後ろからも横からも来た。まだ相手は攻めてこない、と思っていたら、後ろからいきなり攻めてきた。敵が武器として持っているのは刀だけだと思っていたら、懐から手裏剣を出して投げてきた。
後ろからは、弓で狙っていた。横から槍で突っ込んできた。
という状況が、三つの原則であり、これをクリアするのが「技」である。ただし達人の、という但し書きが付く。普通に考えてみて、映画や芝居ではないのだから、この状況は単純に運動能力が高いということでクリアできるほど甘くはない事は想像できるだろう。
むろん、敵味方共に生命が賭かっているから、現代の剣道競技のように、ポイントにならない箇所や打突が浅い時「まだまだ」と声が掛かり終わるものではない。ポイントにならない箇所であっても、打突が浅かろうが手が無くなっていたり足を落としたり、肩の骨が斬られていたりするのだ。
と考えると、武士であれば誰でも、また、剣の免許皆伝であれば誰でもこれをクリアしたとは考えられないだろう。また、単純運動論や身体操作でクリアできないことも想像できるだろう。
だから、要素として、相互が接着している、相互は接着していない、に関わらず相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知する為の能力が必要なのだ。つまり、敵の攻撃の意志の起こりを攻撃という具体的動作が起こる前に察知し、それに対応する能力が必要だったということである。
では、これら武道の原則や要素は現代の何に役に立つのか?
武道とは、武道の三原則の通り、一人あるいは複数の敵を相手に戦い勝ちを収める為に切磋琢磨し、工夫し、という過程を指す。一人あるいは複数の敵、つまり、人との駆け引きでありその駆け引きの究極の形である。

相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知する為の能力は、相手に対する気遣い・気配りであり、それらは人間関係を円滑に行う為の、また、仕事を円滑に行う為の目に見えない一番大切な能力である。
というところから言えば、人間関係術として現代で大いに役に立つのだ。もちろん、人間関係のみならずここに上げた要素は、現代のスポーツでも役立たせる事は出来る。
また、ものの考え方としても役に立たせることが出来る、と断言しよう。
  武道的身体とは
武道というものは分かった。ではその武道家の身体、武道家としての身体は、現代のスポーツ選手とどう違うのか。また、武道家は一般では見かけることの出来ない特殊な動きを要求されているのか。という疑問を持つだろう。
決定的に違うのは、武道では一瞬のミスが自分自身の生命を落とす、という条件が常にあることだ。街を歩く、茶店で座る、座敷で座る、風呂に入る、食事をする等、日常全ての動き・行動が直接自分の生命と関わっている、という自覚を持っているのが武道家である。
という日常から武芸の稽古を積んでいくのだから、当然スポーツ選手の動きと違うだろう事は想像できるだろう。
でも。武道家の身体は、といえば別段普通の人と同じだろう。しかし、武道的身体と言えば、これはまるで違うといえる。
それは、ごく一般的に武芸十八般と呼ぶくらい様々な武器術を体得していたからだ。それを想像しやすく敢えて現代のスポーツに当てはめるとすれば、十種競技の選手の身体能力だろう。
陸上競技の単独種目しかやっていない選手と、十種競技の選手を比較すれば様々な違いがあるのと同じである。
武芸十八般。剣術・居合い術・短刀術・槍術・薙刀術・手裏剣術・鎖がま術・杖術・棒術・弓術・馬術・柔術・砲術・十手術・捕縛術・三つ道具・忍術・水泳術だ。これには諸説あるが、大方はこういったものである。
これらの武術を体得した身体は、これら十八の種類を媒介として精密な動きが形成されていくし、力をふんだんに出せる身体になった。何よりも身体感性が向上したはずだ。
それは、数学・国語・理科・音楽・英語他を獲得することで、頭を柔らかく使えるようになった、それらを総合して一つのことを考える力が深くなっていった、という結果と同じ様なことだと考えて良い。
決して、「人」は一つのことで一つの能力を伸ばす、という単純機械的能力しか持ち合わせていないのではないし、一つのことで一つの能力が開花するのでもないのだ。
この辺りのことを、経験的に知っていたのが当時の武道家の一部におり、その一部の人が達人だったのである。
もちろん、こういった武芸十八般を体得していなければ、敵と対応できないという必然があったからなのだが(もちろん、敵を知り己を知れば百戦危うからず、の意味も含まれている)。

[出典]


http://www.hino-budo.com/hon/shinkan-nyumon.html

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