2014年10月31日金曜日
葉 隠
武 士たるものは、武道を心掛くべきこと、珍らしからずといへども、皆、人、油斷と見えたり。其の仔細は、武道の大意は、何と御心得候か、と問ひかけられたる とき、言下に答へ得る人稀なり。そは平素、胸におちつきなき故なり。さては、武道不心がけのこと、知られ申し候。油斷千萬のことなり。
武士道と云ふことは、即ち死ぬことと見付けたり。凡そ二ツ一ツの場合に、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわりて進むなり。若し圖にあたらぬとき、犬死などと云ふは、上方風の打上りたる武道なるべし。二ツ一ツの 場合に、圖にあたることのわかることは、到底出來ざることなり。我れ人共に、等しく生きる方が、萬々望むかたなれば、其の好むかたに理がつくべし。若し圖 にはづれて生きたらば、腰ぬけなりとて、世の笑ひの種となるなり。此のさかひ、まことに危し。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違ひとよばるれども、腰けに くらぶれば、耻辱にはならず。是れが武道に於てまづ丈夫なり。毎朝、毎夕、改めては死ぬ死ぬと、常住死身に成つてゐるときは、武道に自由を得、一生落度な く、家職を仕果すべきなり。
[出典]
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758897
■葉隠-HAGAKURE-検索
・「葉隠」(写本一覧)(説明)
A list of HAGAKURE copied by Koyama and others
・『校註葉隠』(本文 校註者:栗原荒野)(説明)
HAGAKURE annotated by KuriharaArano
・『校註葉隠』(英訳 翻訳者:西山正廣)(説明)
HAGAKURE annotated by KuriharaArano and translated by Nishiyama Masahiro
・「葉隠研究」「いま、世界に生きる葉隠」(目次一覧)
A list of "HAGAKURE" magazines and a special number on the International Symposium in 1992
[出典]
http://www.sagakentosyo.jp/hagakure/html/
「葉隠」について
日本を代表する武士道論の古典である「葉隠」は、戦国の世が遠い昔のこととなり、武士が戦う者としての役割を失い、新しい生き方を見いだすことを求めら れていた時代に生み出されました。そして、「葉隠」の口述者である山本常朝は、戦国の武士の気概の中に、太平の時代にふさわしい武士のあり方と知恵を見つ けだしています。
・「葉隠」成立の時代背景
田代陣基が山本常朝の草庵を訪れ、「葉隠」が現在知られているような形にまとめ上げられたのは、今から270年程前までのことだと考えられています。
すでに徳川幕府も安定し、六代家宣、七代家継そして八代吉宗が将軍となり、戦国の戦乱も遠い昔とのこととなって、人々が太平の世に慣れきった時代でした。佐賀藩も三代綱茂、四代吉茂が藩主となり、本藩による体制も整えられていました。
こうした時代の中にあって、戦うことを生業とした武士が、その役割を失い、太平の世のふさわしい武士の新しい生き方と知恵が求められていた時代でもありました。
・「葉隠」の成立
二代藩主鍋島光茂に忠誠を尽くした常朝は、光茂亡き後、出家して金立山の麓(佐賀市金立町金立)、黒土原の朝陽軒に隠棲していました。
藩主の祐筆役(書記役)をつとめた田代陣基がその常朝を訪ねたのは、宝永七年(1710)3月のことでした。以後、6年半にわたって、陣基は常朝からさ まざまな教訓や古人の遺訓、歴史や伝説、実際にあった話、人物評などを聞き、さらに自分自身で調べてことを加えて、享保元年(1716)9月までにまとめ あげました。
なお、陣基自筆の「葉隠」は伝わっておらず、補訂は享保元年以後も続けられたとも考えられています。
・「葉隠」の構成
「葉隠」は、全11巻からなり、一般に「夜陰の閑談」という序文ではじまります。聞書第一・第二は、陣基が常朝から直接聞いた教訓や実際にあった話、聞 書第三は佐賀藩祖直茂に関すること、聞書第四は主に初代藩主勝茂に関すること、聞書第五は主に二代藩主光茂、三代藩主綱茂に関すること、聞書第六は「御国 古来の事」、聞書第七・第八・第九は「武勇奉公方、御国諸侍の褒貶」、聞書第十は「他家の噂並びに由緒等」、聞書第十一は「前十冊の内に載せざる事その 外」となっています。 つまり、常朝自身の話をまとめた聞書第一・第二と常朝の話をもとに陣基が独自に編さんした聞書第三以降に大きく分かれています。
・「葉隠聞書」の独創性
「葉隠」が他の武士道論と異なるのは、戦うことを生業とした武士のありのままの姿の中に、太平の世における生き方と知恵を求めようとしたことです。そのことを常朝は、「夜陰の閑談」の中で次のように述べています。
「御先祖様方の御苦労御慈悲」によって「御家御長久、今が世迄、無雙の御家にて候」
「国学得心の上にては、餘の道も慰みに承るべき事に候…国学にて不足のこと、一事もこれなく候」
つまり、佐賀藩の成り立ちや伝統(「国学」)の中にこそ、太平の世において国を治め、家を保ち、民を養う武士の新たな生き方と知恵の根本があると考えました。
・「葉隠」の言葉
「葉隠」の代表的な言葉には「夜陰の閑談」の中の「四誓願」があります。
一、武士道に於いておくれ取り申すまじき事。
一、主君の御用に立つべき事。
一、親に孝行仕るべき事。
一、大慈悲を起し人の為になるべき事
この内容は石田一鼎の著した「要鑑抄」にある「三誓願」や、湛然和尚の「武士は勇気を表にして内心には腹の破るゝほど大慈悲心を持たざれば、家業立たざるものなり。」(聞書第六)という慈悲に対する考えの影響があると考えられます。
・「葉隠」のひろがり
田代陣基自筆の「葉隠」は、伝わっておらず、奥書には「この始終十一巻はおって火中すべし」と書かれているように、公になることはありませんでしたが、 広く佐賀藩の武士たちの間で読み、書き写されてきました。写本は、現在、四十種類以上の存在が知られ、いくつかの系統に分類されています。
これまでに発見されている写本のなかでも、最も古いものは、文化元年(1804)9月に写し終わった「小山本」(県立図書館所蔵)です。
「葉隠」が活字化され刊行されたのは、明治39年(1906)、中村郁一の手によって『葉隠』が刊行されてからのことです。
*「葉隠」については、佐賀大学附属図書館ホームページの「貴重書コレクション」に詳しい解説(http://www.dl.saga-u.ac.jp/OgiNabesima/haga.htm)がありますのでそちらもお読みください。
山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。
万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路(現在の佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩士山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田作左衛門女。
常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きら れまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初 名を松亀と名づけられ、9歳のとき、鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。
11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳に元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。
この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、21歳のときに仏法の血脈(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。
『葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。
天和2年(1682年)24歳のとき、6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。
5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。
同年5月16日、光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家、5月19日、高伝寺了意和尚より受戒、剃髮。そして、7月初旬佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町)黒土原の庵室朝陽軒に隠棲。
田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年)3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。
のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。
享保元年(1716年)9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年)10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は八戸龍雲寺。
辞世の歌:
- 重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵
- 虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された書物。肥前国佐賀鍋島藩藩士・山本常朝の武士としての心得についての見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基(つらもと)が筆録した記録である。全11巻。葉可久礼とも書く。
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。元禄赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く禁書の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
浮世から何里あらうか山桜 常朝
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する 書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしな いようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。 」
「維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」

山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう)は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。
鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。
江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客。明治維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に蔵奉行・木呂子村の知行主である小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝)。
9歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。
嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。安政3年(1856年)、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され取締役となる。文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる。元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたという。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。
嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。安政3年(1856年)、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され取締役となる。文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる。元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたという。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。
慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会する。
2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[1]。
3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
- 一、江戸城を明け渡す。
- 一、城中の兵を向島に移す。
- 一、兵器をすべて差し出す。
- 一、軍艦をすべて引き渡す。
- 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。
明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。
西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治15年(1882年)、西郷との約束どおり致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に叙される。
明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。
明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。
- 剣
- 自身の道場「春風館」や、宮内省の道場「済寧館」、剣槍柔術永続社で剣術を教えた。弟子に香川善治郎、柳多元治郎、小南易知、籠手田安定、北垣国道、高野佐三郎らがいる。松崎浪四郎も後に鉄舟門下に入っている。日本史上最後の仇討をした人物として知られる臼井六郎も目的を明かさずに門下で修業を積んでいる。精神修養を重んじる鉄舟の剣道観は近代剣道の理念に影響を与え、現在も鉄舟を私淑する剣道家は多い。平成15年(2003年)、鉄舟は全日本剣道連盟の剣道殿堂に顕彰された。
- 禅
- 三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。禅道の弟子に三遊亭圓朝らがいる。また今北洪川、高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。両忘会はその後一時、活動停止状態となっていたが、釈宗演門下の釈宗活の宗教両忘禅教会、釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。
- 書
- 人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている[2]。
『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。全59品。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。
信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成され、江戸時代には江戸をはじめ各地で読み物として親しまれた。
1582年(天正10年)に武田氏は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡したが、織田信長の死後、徳川家康が甲州を支配するようになり武田遺臣を用いる方針を取ったため、甲州流軍学が盛んになった。本書は甲州流軍学の聖典とされ、江戸時代には出版されて広く流布し、『甲陽軍鑑評判』などの解説書や信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代期を抽出した片島深淵子『武田三代軍記』なども出版された。江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。
刊本には古写本を底本とした酒井憲二『甲陽軍鑑大成』や明暦年間の流布本を底本とした磯貝正義・服部治則校注『甲陽軍鑑』(人物往来社、1965年)などの諸本がある。
『甲陽軍鑑』の成立は、『軍鑑』によれば天正3年(1575年)5月から天正5年(1577年)で、天正14年(1586年)5月の日付で終っている。甲陽軍鑑の成立時期は武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあたり、『軍鑑』に拠れば信玄・勝頼期の武田家臣である春日虎綱(高坂昌信)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。
春日虎綱は天正6年に死去するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後、天正13年に亡命先の佐渡島において死去するまで執筆を引き継いでいる。翌天正14年 にはこの原本を虎綱の部下であった「小幡下野守」が入手し後補と署名を添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本が近世に刊行されたものであると考えられている[1]。
さらに、これを武田家の足軽大将であった小幡昌盛の子景憲が入手しさらに手を加えて成立したものと考えられており、『軍鑑』の原本は存在していないが、元和7年の小幡景憲写本本が最古写本として残されている。景憲は『甲陽軍鑑』を教典とした甲州流軍学を創始し幕府をはじめとした諸大名家に受け入れられており、この頃には本阿弥光悦ら同時代人も『軍鑑』に触れたことを記している。
近世には武家のみならず庶民の間でも流布するが、実証性が重視される近代歴史学においては『太平記』『太閤記』などの編纂物と同様に、基礎的事実や年紀の誤りから歴史研究の史料としての価値が否定され、小幡景憲が春日虎綱の名を借りて偽作したものであると見なされた。一方で、国語学者の酒井憲二は1990年代から『軍鑑』に関する国語学的検討を行い、語法などの分析から江戸時代以前の用法が見られることから再評価が提唱されている。
軍鑑は江戸時代から合戦の誤りなどが指摘されていた。肥前平戸藩主の松浦鎮信の著で、元禄9年(1696年)頃の成立の『武功雑記』[2]によると、山本勘介の子供が学のある僧となり、父の事跡を高坂弾正の作と偽り甲陽軍鑑と名付けたつくりものと断じている。湯浅常山の『常山紀談』にも、『甲陽軍鑑』虚妄多き事、と記述されている。
明治時代以降は実証主義歴史学が主流となり、1891年(明治24年)には田中義成「甲陽軍鑑考」『史学会雑誌』(14号、史学雑誌)において文書や記録資料との比較から誤りの多さが指摘され、甲陽軍鑑は高坂弾正(春日虎綱)の著作ではなく江戸初期に小幡景憲が武田遺臣の取材をもとに記した記録物語であるとした[3]。
戦後の実証的武田氏研究においても文書や『高白斎記(甲陽日記)』『勝山記』ら他の記録資料や対照からも誤りが多いことが指摘されていた。一方で、近年は酒井憲二の国学的研究を嚆矢に、平山優、小和田哲男、黒田日出男らが実証的研究の立場から軍鑑を再評価する動きもある。
甲陽軍鑑においては勝頼期の武田家に関して跡部勝資・長坂光堅ら勝頼側近が専横を極め、天正3年の長篠の戦いに おいては跡部・長坂らが合戦に反対する譜代家臣らに対し主戦論を主張し大敗を招くなど、新興側近層と譜代宿老層の対立構図として武田家の事情を記し、勝頼 や勝頼側近について不当に貶められていると指摘されている。例えば跡部勝資・長坂光堅は武田家の滅亡に際し勝頼を見捨てて逃亡したとしているが、『信長公記』『甲乱記』など他の記録資料によれば彼らは勝頼に殉じて自害したと記している。
『甲陽軍鑑』の記される信玄死去の三年秘匿や勝頼嫡男の信勝元服に際した勝頼隠居の可能性などは文書上からも認められ、また信玄後期から勝頼期には 武田領国の拡大に伴い譜代家老は城代として領域各地に赴任し、当主側近には跡部勝資ら側近層が常駐し彼らは朱印状奉者を独占的に務めていることも指摘さ れ、具体的逸話の信憑性に関しては慎重視されるものの『甲陽軍鑑』の記す新興側近層と譜代家老層の対立構図などは武田家の実態を反映している可能性が考え られている[4]。
武士道(ぶしどう)は、日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさす。 これといった厳密な定義は存在せず、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる。また武士におけるルールブック的位置ではない思想である。
明治時代の思想家新渡戸稲造の著書『武士道』についても本稿で述べる。
「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記とされる『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の 言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴である。これらは主に、武士と しての生き方に関わるものであり、あくまでも各家々の家訓であって、家臣としての処世術にも等しいものである。普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる 「武士道」とは趣が異なる。
武士道は江戸時代には武道ともいわれたがこれはのちに武術を指すようになった。
道徳大系としての武士道は主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想、ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れているものが多く、それは江戸期に思想的隆盛を迎え、武士道として体系付けられるに至る。しかし無論、儒教思想がそのまま取り入れられた訳ではなく、儒学の中では『四書』の一つとして重要視されている『孟子』を、国体にそぐわないものであると評価する思想家は多い。この辺りに、山岡鉄舟が言うような武士道の武士道たる所以があるものと言える。また、思想が実際の行動に顕現させられていたのが、武士道としての大きな特徴である。
江戸時代の安定期に山鹿素行は「職分論」の思想へ傾いていく。武士がなぜ存在するのかを突き詰めて考えた山鹿の結論は武士は身分という制度ではなく自分が(封建)社会全体への責任を負う立場であると定義をすることで武士となり、(封建)社会全体への倫理を担うとするものであった。例えば朱子学は、 人間は自分の所属する共同体へ義務を負うとした。この共同体で最上のものは国家である。国家を動かすシステムは幕藩体制でありこれはそのまま武士階級の倫 理を意味している。山鹿はこれに対し人間は確かに国家に属しているが武士に(封建)社会全体への義務を負わせることを選んだ存在も確かにいるとした。これ は人間でもなく、社会でもない。人間は自ら倫理を担うものであり、社会は倫理に基づいて人間が実践をする場である。国家という制度のように目には見えない が武士を動かしたそれを山鹿は天とした。そのうえで自らが所属する共同体への倫理と天からあたえられた倫理が衝突した場合に武士は天倫を選択すると考え た。
幕府は山鹿を処罰した。山鹿は朱子学を批判したが、制度により共同体がつくられ所属する人間に倫理を担わせると考えるのは現実には学校や会社という制度で今日も生きており、逆に山鹿の考え方は少数派となっている。
近世における武士道の観念
武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかった。体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟である。江戸時代の元和年間(1615年–1624年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになったとされる。[1]。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになる。
享保元年頃(1716年)、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』[2]が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。
幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。
明治時代以降の武士道の解釈
明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。実際、1882年(明治15年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実(拝金主義や人種差別)に衝撃をうけ同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。新渡戸は近代において人間が陥りやすい拝金主義や唯物主義の根っこにある個人主義に 対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘している。無論これは新渡戸の考えである。同時に新渡戸に とって武士は国際社会において日本人の倫理感の高さ、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったとす るのが今日の一般的な見方である。
新渡戸を含めた含めたものたちにとって日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり武士道はその内の検証の一つとされている。正宗白鳥(1879~1962)は短編の評論『内村鑑三』(1950)の中で、自分の青年期に出会った内村を心の琴線に触れる部分はあったが概してその「武士道」の根太さが大時代な分だけ醒めた視線で見ていたと率直に表現している。
新渡戸稲造の『武士道』
新渡戸稲造は現地の教育関係者との会話において日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、1900年(明治33年)にアメリカ合衆国でBushido: The Soul of Japan[3][4]を刊行した。本書はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン・パウエルなど、多くの海外の読者を得て、1908年(明治41年)に『武士道』 [5]として桜井彦一郎(鴎村)が日本語訳を出版した。さらに、1938年(昭和13年)に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により岩波文庫版[6]が出版された。『武士道』においては、外国人の妻にもわかるようにバラと桜の違いに触れたり19世紀末の哲学や科学的 思考を用いたりしながら、日本人は日本社会という枠の中でどのように生きたのかを説明している。島国の自然がどのようなもので日本独特の四季の移り変わり などから影響を及ぼされた結果、日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や信条というモデルケースから醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝え ている。例えば、武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い損得では動かない忠義を信条としたことに触れ、家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、こ れらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、この機微は外国人には理解できないものであろう、といったことを述べている。
近現代における武士道
武士道は日本の発展にも重要な精神となった。武士道の精神を基本とした士魂商才という言葉も生まれ、拝金主義に陥りがちであった精神を戒め、さらに 商才を発揮することで理想像である経営者となることを表すものであった。 このような経営哲学・倫理は欧米でも戦後に発達し、帝王学(人の上に立つものとしての精神)に類似した学問も登場した。 今では企業の倫理が問われるようになっており、経営者や戦略における重要な要素となっている。武士道などの精神は経営系の大学、高校において標語として採 用している場合もある。 現在では国際化の進展に合わせて日本の武士道などの日本経営精神に対する必要性を挙げるものもいる。 武士道の著者である新渡戸稲造も祖父が商人としての成功があったが、商業倫理に関する言葉を残している。他にも渋沢栄一の今後の時代に必要な武士道を説く などと明治時代から大正デモクラシーにかけての日本の実業に関する精神が唱えられ、日本的経営に必要な背骨となった。
残心(ざんしん)とは日本の武道および芸道において用いられる言葉。残身や残芯と書くこともある。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。
だらしなくない事や気を抜かない事や卑怯でない事であり、裏を返せば「美しい所作」の継続ともいえる。
相手のある場合において卑怯でない、驕らない、高ぶらない事や試合う(しあう)相手がある事に感謝する。どんな相手でも相手があって初めて技術の向上が出来ることや相手から自身が学べたり初心に帰る事など、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもある。相手を尊重する思いやる事でもある。
生活の中では、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心が出来ていない」といって躾 けとして用いられる言葉でもある。仕舞いを「きちっと」する事でもある。ちなみに「躾け」とは「美しい」所作が「身」につく事を表した和製漢字である。
武道における残心とは、技を決めた後も心身ともに油断をしないことである。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。
この精神を詠った道歌に以下のようなものがある。
たとえば弓道における残心は、矢を射った後も心身ともに姿勢を保ち、目は矢が当たった場所を見据えることである[2]。剣道では、意識した状態を持続しながら、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていることを残心と呼び、残心がなければ技が正確に決まっても有効打突にならない。なぎなたの残心のルールは剣道とは異なるが、剣道同様、正確な攻撃であっても残心がないと無効とされる[3]。剣道の試合において一本取った事を喜ぶ様(ガッツポーズなど)が見受けられれば、奢り高ぶっていて残心が無いとみなされ、一本を取り消される事がある。
空手における残心とは完全に意識している状態で、自分の周囲と敵を把握し、反撃の準備もできていることである。柔術における残心は、拳は繰り出すスピードより早く引き戻す、相手を投げた後もバランスを崩さないなど次の攻撃の準備ができていることを意味する[4]。合気道においても、自分が投げたばかりの受け(相手)を意識しながら、万一再攻撃があった場合に備えて体を構えることを残心という。
武術における残心は、あくまで身構えに対する心構えの一つであり、流派によっては、前心・通心・残心を説いている[5]。現代では武器武道において残心がよく説かれるが、本来、心構えは残心だけではないことに注意がいる。
茶道における残心とは、千利休の道歌に表れている。
日本舞踊における残心とは、主に踊りの区切りの終わりに用いられ、表現として「仕舞いが出来ていない」ともいわれる。弓道と同じように最後まで気を抜かず、手先足先まで神経を行渡らせ区切りの「お仕舞い」まで踊る事を指す。
だらしなくない事や気を抜かない事や卑怯でない事であり、裏を返せば「美しい所作」の継続ともいえる。
相手のある場合において卑怯でない、驕らない、高ぶらない事や試合う(しあう)相手がある事に感謝する。どんな相手でも相手があって初めて技術の向上が出来ることや相手から自身が学べたり初心に帰る事など、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもある。相手を尊重する思いやる事でもある。
生活の中では、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心が出来ていない」といって躾 けとして用いられる言葉でもある。仕舞いを「きちっと」する事でもある。ちなみに「躾け」とは「美しい」所作が「身」につく事を表した和製漢字である。
武道における残心とは、技を決めた後も心身ともに油断をしないことである。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。
この精神を詠った道歌に以下のようなものがある。
- 折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ[1]
- (桜を手に入れたと油断するな。嵐が吹いてしまったらどうするのだ)
たとえば弓道における残心は、矢を射った後も心身ともに姿勢を保ち、目は矢が当たった場所を見据えることである[2]。剣道では、意識した状態を持続しながら、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていることを残心と呼び、残心がなければ技が正確に決まっても有効打突にならない。なぎなたの残心のルールは剣道とは異なるが、剣道同様、正確な攻撃であっても残心がないと無効とされる[3]。剣道の試合において一本取った事を喜ぶ様(ガッツポーズなど)が見受けられれば、奢り高ぶっていて残心が無いとみなされ、一本を取り消される事がある。
空手における残心とは完全に意識している状態で、自分の周囲と敵を把握し、反撃の準備もできていることである。柔術における残心は、拳は繰り出すスピードより早く引き戻す、相手を投げた後もバランスを崩さないなど次の攻撃の準備ができていることを意味する[4]。合気道においても、自分が投げたばかりの受け(相手)を意識しながら、万一再攻撃があった場合に備えて体を構えることを残心という。
武術における残心は、あくまで身構えに対する心構えの一つであり、流派によっては、前心・通心・残心を説いている[5]。現代では武器武道において残心がよく説かれるが、本来、心構えは残心だけではないことに注意がいる。
茶道における残心とは、千利休の道歌に表れている。
- 何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ[6]
- (茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
日本舞踊における残心とは、主に踊りの区切りの終わりに用いられ、表現として「仕舞いが出来ていない」ともいわれる。弓道と同じように最後まで気を抜かず、手先足先まで神経を行渡らせ区切りの「お仕舞い」まで踊る事を指す。
2014年10月29日水曜日
昭和16年より内弟子として修行された山本角義先生の話によると、武田惣角(たけだそうかく)先生は柔術家であるが、10年か15年早く生まれていたら剣術家になって幕末の剣士として名を残していたのではないかと言っておられた。
山本角義(本名留吉)は、3万余人の門弟中最後の愛弟子として師匠より、おまえに総ての武術を伝授すると言われ唯一人合気の秘法と真剣術を伝授された人物である。数年を要してその剣に大東流の理合を加え、まとめたのが現在の無限神刀流居合術である。
武田惣角が伝授された会津小野派一刀流は、剣術師範であった渋谷東馬より明治2年会津坂下養氣館で教授されている。
渋谷東馬は会津藩医であった父、生江寛隆(なまえかんりゅう)の第三子として天保3年(1832)10月13日会津坂下(アイヅバンゲ)で生を受け る。明治37年5月6日73歳で逝去、お墓は福島県会津若松市坂下定林(ジョウリン)寺にある。東馬は渋谷家で男子がなく、それで養子として迎えられたも のである。尚、東馬の剣の師匠は不明である。
会津小野派一刀流は、今日数多くある他流派の型剣だけではなく実戦的な木刀の使い方をしている。それは会津戊辰戦争で官軍と実際に戦った刀法による ものである。それを武田惣角は受け継いでいるのである。山本角義は武田惣角に直接伝授されている。惣角は山本に「会津は剣では負けなかったが、新式の鉄砲 に負けた」と言っている。
武田惣角が養子に入ったと言われた、黒河内伝五郎は会津藩第一の武芸者として名高く武芸百般と言われた人物であったが、50歳代中より眼病により失 明されている。慶応4年長子百太郎(43歳)が会津戊辰戦争で重傷を負いもはやこれ迄と悟り百太郎を介錯して二子百次郎(34歳)と共に自分も自害して果 てた、時に黒河内伝五郎享和2年(1802)に生を受け66歳の生涯であった。お墓は福島県会津若松市阿弥陀寺にある。
武田惣角は明治初年、江戸(東京)車坂に道場を開いていた榊原鍵吉に師事、直心影流剣術を教伝される。
榊原鍵吉は幕末講武所剣術教授方で300石。第14代将軍徳川家茂公の剣術指南をした人物でもある。明治20年伏見宮邸において明治天皇御前で兜割りをされ、みごと3寸5分斬り込まれている。
鍵吉は天保元年(1830)11月榊原友直の子として生を受け、13歳で直心影流幕府講武所奉行3000石、男谷信友の道場に入門、明治27年9月11日65歳で逝去。お墓は東京四谷南寺町西応寺にある。
尚、武田惣角先生は、柳生新陰流剣術はされていない。
武田惣角源正義先生は昭和18年4月25日青森市旅館伊東方で逝去、山本角義が死に水をとられている。
現在お墓は北海道網走市台町曹洞宗法竜寺にある。
山本角義先生は昭和57年1月30日逝去。お墓は北海道苫小牧市第2霊園にある。霊(みたま)は青森県東津軽郡平内町大字外童子 松緑神道大和山御本山に奉られている。
[出典]
http://aiki.jp/nagao/soukaku.html
四十四五
このころよりは、能のてだて、おほかた変わるべし。たとひ、天下に許され、能に徳法したりとも、それにつき ても、よきわきのしてを持つべし。能は下がらねども、力なく、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそめの花も、 失するなり。まづ、すぐれたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面の申楽は、年寄りてはみられぬものなり。 さるほどに、このひとむきは欠けたり。このころよりは、さのみに、こまかなるものまねをばすまじきなり。おほ かた似合たる風体を、やすやすと、骨を折らで、わきにしてに花を持たせて、あひしらひの様に、すくなすくなと すべし。たとひわきのしてなからんにしても、いよいよこまかにみをくだく能をばすまじきなり。なにとしても、 よそめ花なし。もし、このころまで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。それは、五十近くまで失せざら む花を持ちたるしてならば、四十以前に天下の名望を得つべし。たとひ天下の許されを得たるしてなりとも、さ様 の上手は、ことにわが身を知るべければ、なほなほわきのしてを嗜み、さのみに身をくだきて、難のみゆべき能を ばすまじきなり。か様にわが身を知る心、得たる人の心なるべし。
二十四五 このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり。声もすでになほり、体もさだまる 時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身形なり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向か ふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそめにも、すは上手いで来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人 などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初む るなり。これ、かへすがへす主のため仇なり。これも真の花にはあらず。年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍し き花なり。真の目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、極めたる様に主の思いて、は や申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに 勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん 人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。
されば、時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花にお きて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。一公案して思ふべし。わが位のほどほ どよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するな り。よくよく心得べし。
十七八より このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、 かかり失せて、過ぎしころの、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りにて、てだてはたと変わりぬれば、 気を失ふ。結句、見物衆もをかしげなる気色みえぬれば、はづかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。 このころの稽古には、指をさして人に笑わるるとも、それをばかへりみず、内にて、声の届かんずる調子にて、宵 暁の声を使ひ、心中には願力を起こして、一期のさかひここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬよりほかは、稽古 あるべからず。総じて、調子は声よりといへども、黄鐘・盤渉をもて用ふべし。調子にさのみにかかれば、身形に くせ出くるものなり。また、声も年よりて損ずる相なり。
十二三より
この年のころよりは、はや漸々声も調子にかかり、能も心づくころなれば、次第次第に物数も教ふべし。まづ童 形なれば、なにをしたるも幽玄なり。声も立つころなり。二つの便りあれば、悪きことは隠れ、よきことはいよい よ花めけり。おほかた、児の申楽に、さのみにこまかなるまねなどは、せさすべからず。当座も似あはず、能もあ がらぬ相なり。ただし、堪能になりぬれば、なにとしたるもよかるべし。児といひ、声といひ、しかも上手ならば、 なにかは悪かるべき。さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分の花なり。去れば、この時分の稽古、す べてすべちやすきなり。さるほどに、一期の能のさだめにはなるまじきなり。このころの稽古、やすきところを花 にあてて、わざをば大事にすべし。はたらきをも確やかに、音曲をも、文字にさわさわとあたり、舞をも、手をさ だめて、大事にして稽古すべし。
第一 年来稽古条々 | |
七 歳 | |
一、この芸において、大方七歳をもて初めとす。このころの能の稽古、かならずその者しぜんといたすことに得
たる風体あるべし。舞・はたらきの間、音曲、もしは、怒れることなどにてもあれ、ふとしいださんかかりを、う
ちまかせて心のままにせさすべし。さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず。あまりにいたく諫むれば、童は気
を失いて、能ものぐさくなりたちぬれば、やがて能はとまるなり。ただ、音曲・はたらき・舞などならではせさす
べからず。さのみのものまねはたといすべくとも、教ふまじきなり。大場などの脇の申楽には立つべからず。三番
・四番の、時分のよからんずるに、得たらん風体をせさすべし。
|
花伝書
(序)
それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移 り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖 徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号 せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この 芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。
されば、古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思 はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。
一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。
(序)
それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移 り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖 徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号 せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この 芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。
されば、古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思 はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。
一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。
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