2014年11月12日水曜日
日野晃を読む
「私は今、何をしているのか」
身体を使った具体的な作業、そこには、何一つ曖昧なものはない。
例えば、「威力のある突き」を目指すとした時に、そこに必要な要素は「スピードと体重の移動」だ。
そして、そのスピードはある特定の姿勢からしか出せないものではなく、どんな姿勢からでもという条件が付く。
そして、体重の移動だ。
この場合もある特定の姿勢から、ではなくどんな姿勢からでも、である。
であれば、どんな順序で身体を組み上げていかなければならないのか、そこに順序の違いはあったところで、要素の違いがあるはずもない。要素が満たされなければその目的は果たせないからだ。
つまり、具体として現れる事はない、ということである。
明確な要素と明確な組み立てが「威力のある突き」を具現化するのである。
という具体であるから、その過程は全て具体である。
具体だから目的が実現するのであって、具体でなければ何も実現しない。
幻の目標に向かって、幻のはしごを作り上るというのが、何事も実現させない為の象徴である。
であるから、当然目的を実現する事など出来ない。
何故なら、この場合の目的は幻であり実際にはないのだから。
先日シルビー・ギエムの「evidentia-エヴィダンシア」というDVDを見つけた。
このDVDは大当たりだった。
そこにはニクラス・エックとのデュオも収められていた。
つまり、ギエムに対しての比較対象があったということだ。
これは有り難い。デュオをしているニクラス・エックのダンスと、シルビー・ギエムのダンスの決定的で端的な違いを一言で言い表せば「イメージがあるのか無いのか」だ。
「運動をしているのか、芸術をしているのか」の違いだ。
つまり、ギエムの場合は、動きの端々まで三つの認知が行き届いているということだ。
その一つは、自分自身の動きの端々まで「何を見せるか」を認知している。
その一つは、自分自身の動きを、身体で刺激という実感を通して認知しながら動いている。
その一つは、その二つの認知を際だたせる為に、自分自身の意識を停止させてしまう。
その意識を停止させているという事を認知しているという三点である。
そして、何よりもこれらの三点がギエムそのものであり、自我がこれらをコントロールしているのではない、という武道の達人レベルの境地にあるということだ。
意識を停止させている、というのは、いわゆる自分自身に雑念を起こさせない、という積極的な意識運動のことだ。
また、(これらは武道の動きの基本でもあるのだ。だからこそギエムを理解できるのだ。)これらのことを同時に行っているのがシルビー・ギエムである。
結果としてそこに現れてくる表現は、腕の独立した動き、足の独立した動き、手の独立した動きというように、それぞれが独立した人格をもったものの様に見えるのだ。
つまり、別々の人間があたかも一つの身体を借りて動いているように見えてしまうのである。
ここがギエムの真骨頂だ。そして、未だかつてバレエの歴史、ダンス歴史の中には存在していない能力なのである。
しかし、ギエムの全ての動きがこうなっているのか、といえばそうではない。
ある一定のスピードの時、そして、ギエムの得意な動きの時に、この天才的な能力が発揮されている。
したがって、ギエムの得意な動きの時とそうではない動きとの違い、ここに偶然的に表現に落差が生まれる。 その落差がまた表現全体を際立たせているのだ。
むろん、ここでいうギエムの得意としない動き、というのは、苦手とか下手ということではない。
この認識の運動を活用できないスピードや動き、ということである。
http://www.hino-budo.com/b-budo.html
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