大正十一年頃(一九二二)、武田惣角さんが植芝塾へ来たわけです。武田さんが、三、 四ヵ(ママ)月おって、その時に父(盛平)と話をし、『大東流合気柔術』として、はじめて“合気”をその中に入れたわけです。それまで合気の術というのは あちこちにあることはありましたが、ひとつの流派として、何々流合気というのはぜんぜんありませんでした。それまでは大東流は大東流柔術でした。(中略)
(聞き手:大東流合気柔術と“合気”を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。)
私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正十一年の前 半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわ れ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです。
父が合気という言葉をいい出したのは、大正十一年です。これは文献ではっきりしております。今そういう真相を知っている者は誰もいない。(中略)ですから私は父がいったことを信用するしかないわけです。
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