2014年11月28日金曜日
ある街の夏祭りに、流派の披露の機会を頂きました。先ずは主宰の基本の型です。
必ず、大刀・脇差を手挟むのが基本です。
[知心流の沿革]
源流は遠く、貞和年間(1345年~1350年)新田武蔵守義宗公に始まり、以後会津の木崎氏、更に東播磨西山庄佐々倉左馬之介源清信に引き継がれた。
1600年初めの古文書に「心を知ること剣の法なり」ということばが見られるが、ここから「知心流」を流派名としたようである。
この間現代の13代宗家松平正親先生まで、一点一画を崩さず連綿として引き継がれている。
流派の印可状は昔は墨書であったが、現在は殆どが印刷である。
知心流は未だ宗家の墨書、花押の見事な筆跡のものである。
主宰と宰嗣による袋竹刀による組太刀
本来は素面、無籠手で木刀による自由稽古が普通である。
会場の床がコンクリートであり、摺り足が出来ないためこの稽古になった。
木刀は全身の寸止めで行うが、袋竹刀は面以外は寸止めをしない。
演技後、主宰の腕には青あざが認められた。
宗嗣による知心流中伝の型。真剣の刃鳴りが会場の空気を裂く
鎧着用を想定した型なので、腰の位置、重心は低い。
[出典]
http://blog.livedoor.jp/suzugatake/archives/954123.html
古武道の揺籃Ⅱ
知心流伝承道場知心五行派刀流の稽古始めが、今年も十日に野田市にある大野主宰の道場で行はれた。
一子相伝として伝えられてきた知心流も、大野主宰は来る者は拒まず、門戸を広げて活動している。
道場の階段脇には、見やすい高さで入門案内書が掲示してある。
主宰は教師剣道七段、知心流十三代宗家から流派の名乗りを許されている。宗嗣は剣道四段、宗家から知心流中伝の允許を受けている。
允許状は古来の形式に法り、和紙に墨書花押のものである。
宗嗣の修行は凄まじい。毎日の修練のほか、年に数回山篭りの荒行をする。寝袋と僅かな糧食を携行して山に入り、昼間僅かな仮眠をとり、夜を徹して暗夜に木剣を振る。
樫の木剣で生木が倒れるまで打ち込み修行を積む。
山を降りるときは体重は五、六キロも減量するそうであるが、全身将に鋼である。
赤城鈴ヶ岳山麓の鎌倉街道探索の折は、急斜面を登る我々の面前を息も切らさず往復して足腰を鍛えている。
知心流の稽古は全員脇差を手挟み、大刀を佩く。型の稽古は真剣で行う。
面切り、袈裟切りの刃鳴りは空を切り裂き、凄まじい刃鳴りが深閑の道場に響く。
日本刀の刃鳴りは、圧搾された空気が一気に両断されるときに鋭く短い刃音を残す。横一文字の円切りは、ビュウンと腹に応える。
切っ先が円形になっており、遠心力による刃の速さは目に残らない。
鍛錬された剛柔の流れるような重心の移動に聊かの無駄が無い。緩やかにも、中断を許さぬ鋭い動きに、気迫が充満している。
何時の間にか、見学している我々の五体が身動きを忘れるほどに、その迫力に制約されている。
納刀してから訪れる眼前の空気と五体の溶解、そして演技者の残心の手の内はまだ一部の隙も許さない。
流派の完成された技の極致である。
続いて稽古着に鉢巻の姿で、木剣による自由組立ち稽古に入る。勝負の寸前に手の内を絞り、寸止めを行う。これは高度の技である。
この稽古は高段者により行われる。
まともに打てば骨を絶つ稽古である。稽古とはいえ、一瞬の油断を許さない。
時には勢いで、木剣が肉に触れる。
空中で切り結ぶ樫の乾いた音が数合響き、瞬時に体が入れ替わる。
磨き込まれたあめ色の床を、能舞台を滑るような足捌きで木剣が唸る。無駄の無い俊敏の動きの中で、常に体勢、構えは全く崩れることは無い。
やがて、両剣士の額に汗が滲む。息を飲むほどに、じつに濃密な稽古が続く。
知心流は、遥か昔、流祖が完成した全ての型について、一点一画を揺るがすことなく、日々の練磨を重ねて現在に伝えている。
その奥義を極め、さらに自らの五体に刻まんとする信念と意思が道場に充溢し、観ている我々を圧倒するのである。
稽古が終わり、藤田東湖が愛した美禄の時間がきた。
道場の中央に置いた座卓を囲み、奥さん手作りの摘みで盃を挙げる。
君杯を挙げたまえ、今宵も美禄一壺の酒
日本酒のある風土、日本は有り難い国である。
[出典]
http://blog.livedoor.jp/suzugatake/tag/古武道の揺籃Ⅱ
2014年11月18日火曜日
現在まで命脈を保っている居合の流儀を紹介する(明らかに復元・創作とわかるものは除外)。
1 林崎夢想流(神夢想林崎流) 青森・東京・新潟。山形は絶伝か。
2 影山流 宮城・福島。 失伝した形が多い。
3 無双直伝英信流・夢想神伝重信流・長谷川流・大森流 全国。
4 夢想神伝流 全国。 ただし古流に含めるかは問題あり。
5 伯耆流 熊本・大阪他。
6 関口流 和歌山・熊本・岐阜・静岡・東京・茨城・愛知他。
7 田宮流 神奈川他。正式には田宮神剣流。
8 制剛流(新陰流) 愛知他。
9 新影流 福岡。
10 民弥流 富山・石川・埼玉他。
11 新田宮流 茨城。
12 香取神道流 千葉・神奈川・静岡他。
13 神刀流 東京他。
14 荒木流 群馬・山梨。
15 荒木無人斎流 兵庫。
16 柳生心眼流 愛知・宮城。
17 竹内流 岡山。
18 興神流 石川。
19 貫心流 島根。
20 水鴎流 静岡。
21 神変自源流 兵庫、埼玉。
22 円心流 大阪他。
23 心形刀流 三重・東京他。
24 知心正流 東京。
25 無外流 全国。
26 立身流 千葉。
27 神道無念流 青森・東京・埼玉・兵庫・山口・長崎他。
28 山本流 東京。
29 信抜流 広島。
30 自剛天真流 福岡。
31 初実剣理方一流 岡山
32 鐘捲流 岡山
33 竹内判官流 関西
34 双水執流 東京
[出典]
http://japanbujut.exblog.jp/21305749
2014年11月13日木曜日
西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。

会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれた。3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移住。16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となり、福島県伊達郡霊山町の霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられた。
1882年(明治15年)上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍する。1883年(明治16年)に初段を取得。
1886年(明治19年)の警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝ったことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。西郷はこの試合で戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎とする文献もあり)に勝ち、勝利に貢献した。
西郷の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた関係で影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため、相手の足を刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かったと言われる。その技は嘉納治五郎に「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、西郷が大東流を学んだ形跡はなく、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。
1889年(明治22年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。以前から交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。
1902年(明治35年)、鈴木天眼が長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める傍ら、長崎で柔道、弓道を指導した。また、長崎游泳協会の創設に鈴木天眼とともに関わり、同協会の監督として日本泳法を指導している。
1922年(大正11年)12月22日、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。没後、講道館から六段を追贈される。
1923年、嘉納は西郷の碑に「講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ 依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績を表ス」と刻んでいる。
小柄で強い柔道家を「○○の三四郎」と呼称するのは、西郷四郎がモデルとなった『姿三四郎』の影響である。四郎自身の体格は、身長が五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)だったと伝わる。
大東流合気柔術との関係
大東流合気柔術の主張する伝承史によると、西郷四郎の養父である頼母は、武田惣角に会津藩に伝わる大東流合気柔術(合気道の 元となった武術)を伝授したとされている。このことから、頼母の養子である四郎も、何らかの形で養父から大東流合気柔術を伝授されたとし、四郎を開祖とす る武術団体(西郷派大東流合気武術など)が存在しているが、近年の武術史研究では、四郎が大東流合気柔術を学んだ物的証拠が存在しないことが証明されてお り、この説は否定されている(詳しくは大東流合気柔術の項を参照の事)。モデルとしたフィクション
- 漫画
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- 陸奥圓明流外伝 修羅の刻 西郷四郎編 - 川原正敏の漫画。
嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月9日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵庫県平民[1]。
講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。
生い立ち
1860年12月9日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治朗作である。初め治作は治朗作に家を継がせようとしていたが治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って幕府の廻船方御用達を務め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟のパトロンともなった。柳宗悦の義母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれる現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別される。
1873年(明治6年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京にて書道・英語などを学んだ。
柔道創始
1874年(明治7年)、育英義塾(のちの育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり柔術は全く省みられなくなり、師匠を探すのにも苦労し柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。窮理の徒である治五郎らしい話である。1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。
1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。
1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝。治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜し大東流合気柔術(後に合気道を開く)の植芝盛平[2]や神道夢想流杖術の清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ(雑誌『新武道』によるとこの薙刀術が1941年(昭和16年) - 1942年(昭和17年)頃の国民学校の標準となったと記されているが国民学校令施行より以前に既に大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記述の正確性には疑問が残る)。
1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される[3]。
教育者として
嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学なお、筑波大学キャンパス内にも立像が建っている。)校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた[4]ほか、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長などを務め(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、さらには、嘉納自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。また中国人留学生の受け入れにも努め、牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中華人民共和国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた。また旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)と交流している。
1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(東洋大学の前身)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用される。
スポーツ
日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。
1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。
死去
1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。エピソード
- 1978年(昭和53年)より「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」(2007年からは「嘉納治五郎杯東京国際柔道大会」)が開かれ、13回(うち「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が12回)行われている。
- オリンピック柔道競技、世界柔道選手権大会に出場する柔道日本代表選手団が大会前に必勝祈願として、嘉納治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。
弟子
四天王
その他の主な弟子
他にもたくさんの弟子が居る。モデルとしたフィクション
- 小説
- 映画
- 柔道一代 - 嘉納をモデルにした香野が登場する
大東流と合気道
合気道の創始者、植芝盛平(1883-1969)は、武田惣角の高弟の一人でした。惣角が植芝に多大な影響を与え、大東流は合気道の源流であると言っても過言ではありません。 武田惣角と植芝盛平は、大正4年(1915)北海道遠軽の地で、初めて出会いました。惣角の技に驚嘆した盛平はすぐさま惣角の門人となり、 大東流を約5年間熱心に修行しました。盛平の大東流に対する執心ぶりは、和歌山県田辺市からの開拓団員たちと住んでいた北海道白滝村に武田惣角を呼んで住まわせるほどでした。 惣角は盛平の家に一時期身を寄せ、大東流を盛平に教授しました。大正8年(1919)後半、盛平は父の病気の知らせを受けて、 家と家財道具一式を惣角に残して急いで白滝を去りました。クリックで拡大 その後、惣角と盛平は大正11年(1922)、惣角一家が盛平の綾部の家に約6ヵ月間過ごすことになって再会します。 当時大本教団に所属していた盛平は大本教の出口王仁三郎のすすめもあって、自宅内に道場を建て大東流を教えていました。 綾部での滞在の終わりに、惣角は、惣角に代わって大東流を教授できる「教授代理」を盛平に授与しています。後に植芝は、当時、 大東流の最高の免許証であった解釈総伝証を授かりました。二人の関係が以前ほど緊密でなくなってからも、その後の10年間には数回顔を会わせています。
歴史資料によると、植芝は、およそ20年間にわたり大東流を稽古していました。その後、徐々に変更を加え、ついに合気道を形成するにいたりました。
[出典]
http://www.daito-ryu.org/jp/daitoryu-to-aikido.html
武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者[注釈 1]。

生涯
生い立ち
会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内伝五郎の娘・富。惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。
青年期
13歳の時、父を説得して上京し、父の友人であった直心影流剣術の榊原鍵吉の内弟子になった[注釈 2]。東京府内の各剣術道場で他流試合を重ね、剣術の他、棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、弓術なども学んだ。10代後半のとき、兄の武田惣勝が若くして亡くなったことにより、武田家を継ぐために呼び戻されたが、家を飛び出して西南戦争の西郷隆盛軍に身を投じようとした。しかし叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行した。
明治21年(1888年)、福島県会津坂下町でコンと結婚し、明治22年(1889年)に長女テル、明治24年(1891年)に長男宗清が生まれた後は、また実家を出て放浪の身となった。
明治36年(1903年)、北辰一刀流の剣豪・下江秀太郎と剣術の試合をして、勝ったとも引き分けたともいわれる[注釈 3]。
大東流普及
一説によると、明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた保科頼母から「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の修行を始めたというが、この伝承史については近年の武術史の研究と調査でほぼ否定されている。惣角は生涯、道場を持っての教授を行わず、請われれば何処にでも出向き、年齢・出身・身分の差別無く大東流合気柔術の技法を広めた[注釈 4]。明治31年(1898年)以降については、英名録と謝礼録という記録が几帳面につけられているため、いつ、どこで、誰に武術を教授したか、かなり詳細な記録がある。また、全国行脚の最中に様々な他流試合や野試合(いわゆるストリートファイト)を行い、大東流合気柔術の実戦性を証明した。
明治37年、北海道を縄張りとし、樺太から東北六県、新潟から東京まで勢力を伸ばしていた丸茂組を単独で制圧する。
大正4年2月、惣角の門人・吉田幸太郎により、植芝盛平が入門。
昭和4年、海軍大将竹下勇が実話雑誌に、「武田惣角武勇伝」を発表。
昭和5年夏、東京朝日新聞記者尾坂与市が取材。「今ト伝」と称する紹介文が新聞に掲載。
昭和11年4月20日、埼玉県浦和警察署で講習会を開催。
昭和11年夏、大阪朝日新聞社の武道教授に就任。
晩年
大正元年(1912年)頃、弟子であった山田スエと北海道で再婚し、武宗、たえ、時宗、榮子、宗光、しずか、宗吉の4男3女をもうけた。以後、北海道を本拠地とするようになった。そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に青森県で客死した。享年84。家系
武田家の来歴、会津藩での地位、惣角の幼少期から青年時代までの経歴については明確な文書記録が非常に乏しく、疑問視する見解も多い。一方で、先祖代々同じ土地に土着する家系が多くを占める農村部の地域社会では、地域の出来事は100年、200年と地域住民で口伝されるため、根拠のない作り話も難しい。武田家や大東流の伝承のすべてが真実でないとしても、何か、話の種となる事実があったことは想像に難くない。祖先
清和源氏の甲斐武田氏の系譜。武田信玄が亡くなった翌年、武田氏と親交があった会津の蘆名氏に協力を求めるため、武田氏から蘆名氏に、武田国継が武田信玄の遺書を持って遣わされた。しかし、織田信長と徳川家康によって甲斐武田氏が滅ぼされてしまい、武田氏の血脈を残すために武田国継はそのまま会津に留まり、織田信長による武田の残党狩りを逃れるため、三浦平八郎盛重と名乗った。会津の蘆名盛氏に地頭として仕えた。また、武田国継は会津で西光寺を建立している。惣角はこの武田国継の子孫である。その後、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と会津の領主は変遷したが、武田家は会津に留まり、蘆名氏、蒲生氏、加藤氏、そして会津松平氏(保科氏)に仕えた。江戸時代には藩士ではなく神職や指南役として仕えたともいわれる。
- 蘆名氏は桓武平氏の三浦氏の支族であり、三浦は蘆名氏の本姓である。また、西光寺を建立したり、会津入りしたときの持参目録の伝承から、甲斐国からまとまった資産を持参した可能性もある。
- 保科氏(会津松平氏)は、甲斐武田氏の有力な家臣であった家系。
祖父・惣右衛門
惣角の祖父・武田惣右衛門は、幕末に会津藩家老・西郷頼母に御式内と陰陽道を教授した。また城内でも御式内を教授したという。京都の土御門家から内匠頭の官名を受けた陰陽師でもあった。諡は武老翁神霊。父・惣吉
武田惣吉(文政3年(1820年) - 明治39年(1906年))は、会津藩士であり、宮相撲の力士であった。四股名は白糸。剣術、槍術、棒術、柔術の達人でもあり、小柄な武田惣角とは違って巨漢であった。武術にも学問にも堪能で、武田屋敷に隣接する西光寺に寺子屋を開くとともに、自宅の土蔵を道場に改築して武術や相撲も教えていた。元治元年(1864年)の禁門の変では手柄を立て、藩主松平容保から恩賞を受けた。戊辰戦争には250名を預かる力士隊の隊長として参加している。会津戦争では西郷頼母の隊に所属し、会津藩降伏後は越後国の高田藩預かりで1年半を過ごした。明治期には宮相撲の年寄り親方として相撲番付に名が残っている。諡は惣吉神霊。兄・惣勝
武田惣勝(嘉永2年(1849年) - 明治9年(1876年))は、武術・学業を修めて神職に就いたが、若くして亡くなった。これにより惣角は武田家を継ぐために会津坂下町に呼び戻されたが、実家に落ち着くことはなく、放浪の身となった。実家は惣角の弟が継いだため、惣角の家系は分家となった。子孫
惣角の長男・武田宗清は、会津坂下町に残り、惣角から学んだ系統の大東流を教授した。惣角の三男・武田時宗は初め北海道警察に勤務し、後に山田水産に勤務。その傍ら、北海道網走市に大東館を開き、第36代宗家・佐川幸義から大東流合気武道宗家を継承した。時宗には後継者たる男子がなく、晩年、体調を崩してから娘の横山信子を次期宗家として発表したが、まもなく大東館は後継者問題で混乱し、分解してしまった。
宗清の曾孫・武田宗光は現在も会津坂下町で大東流合気柔術教室を開いている。宗光は、初め会津坂下町で宗清が父の惣角から学んだ系統の大東流を祖父 から指導されたが、後に時宗やその高弟の指導も受けている。時宗は山田水産を定年退職後、網走市から会津坂下町に通って宗光に指導する事もあった。
エピソード
- 代筆
- 幼い頃に寺子屋に行くことを嫌い、「自分は一生字を書かない。他人に書かせる立場になる」と誓ったため、字が書けなかった[1]。父の惣吉は「お前のために字を書く者がいるか」と怒ったが、後に裁判官、警察署長、陸海軍高官など社会的地位の高い人物が惣角の弟子、あるいは後援者となり、弟子達に代筆をさせていた。但し後に弟子による証言によると、文字を読むことは出来た様で、新聞を読むなど最新知識の取得に熱心であった。
- 猜疑心
- 猜疑心が強く、隙を与えることを嫌った。食物は相手が毒見をするまで食べなかったという。息子の武田時宗を伴って剣道家の高野佐三郎の家を訪ねた際も、差し出された菓子を食べず、時宗が高野の前を歩くと「高野に後ろから抱きつかれて刺されたらどうするんだ」と叱った[2]。時宗が「まさか高野先生が」と言うと、「まさか、まさかと言って皆殺されている。それが分からないなら帰れ」とひどく叱られたという。
- 手裏剣術
- 惣角が手裏剣術を教えているとき、足が動かない者が笑った。惣角が「何が可笑しい」と問うと生徒は「そのような尖ったものは突き刺さって当然だ」と言い、おもむろに硬貨を出し柱に投げた。硬貨は柱に刺さり、惣角はそれを見てから手裏剣術を教えることはしなくなったという。
- 井上鑑昭との関わり
- 親英体道の創始者である井上鑑昭が幼少(本人の談によると12歳)の頃、叔父である植芝盛平(合気道の創始者)に連れられて大東流の稽古を 見学した。惣角から「坊、一緒に稽古せえ」と勧められるが、井上は「ワシはおっちゃんの稽古嫌いやから嫌や、おっちゃんの稽古しても役に立たんし強ならへ ん」とあからさまに大東流の稽古法を否定された(傍らでそのやりとりを見ていた植芝盛平が、逆に顔面蒼白になったという)。しかしそんな生意気な井上少年 に対し、惣角は一切叱ることはなく、「そうかそうか」と笑って許したという[注釈 5]。
- 服装
- 外見をおぎなうために、羽織袴に山高帽をかぶり、高下駄をはいていた[4]。二・二六事件後、右翼団体が横行し時代が緊迫する中で、暴徒に襲撃されたときに見苦しい死にざまをさらさないために、門人が寄贈した三尺五寸(約150センチ)の鉄杖をつき、腰に脇差を差すようになった[5]。
武田惣角が登場する作品
- 津本陽 『鬼の冠』(新潮文庫)
- 津本陽 『孤塁の名人』(文藝春秋)
- 今野敏 『惣角流浪』(集英社文庫)
- 今野敏 『山嵐』(集英社文庫)
- 池月映 『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』(本の森)
- 安彦良和 『王道の狗』
- 松田隆智 『拳児』
- 夢枕獏 『東天の獅子』(双葉社)
植芝盛平を読む。06
大正十一年頃(一九二二)、武田惣角さんが植芝塾へ来たわけです。武田さんが、三、 四ヵ(ママ)月おって、その時に父(盛平)と話をし、『大東流合気柔術』として、はじめて“合気”をその中に入れたわけです。それまで合気の術というのは あちこちにあることはありましたが、ひとつの流派として、何々流合気というのはぜんぜんありませんでした。それまでは大東流は大東流柔術でした。(中略)
(聞き手:大東流合気柔術と“合気”を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。)
私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正十一年の前 半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわ れ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです。
父が合気という言葉をいい出したのは、大正十一年です。これは文献ではっきりしております。今そういう真相を知っている者は誰もいない。(中略)ですから私は父がいったことを信用するしかないわけです。
植芝盛平を読む。05
合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝叔父(盛平)を呼んで、『大東流柔術というのはやめとけ、合気という名前にしたらいい』といったわけです。(中略)それまでは皇武武道といってました。
植芝盛平を読む。04
合気道における力の使い方は、先ず第一に肩、首等上半身の力を全く抜き、臍下丹田に気力を充実すること、第二に手を開き五指を張って指先に力を入れる、ということである。指先に力を入れるのは、自然に重心をさげ、全身を硬直から救うことを意味している。
植芝盛平を読む。03
初対面の人が発する質問の第一は、必ず申し合わせたように、「私のような力のない者で もできるでしょうか」(中略)である。これに対し私は「(中略)力はいかにして全身より抜ききって、気力を充実さすか、ということに日頃の練習法があるの ですから、非力な婦人、子供の方でも立派にこなせるのです」と言っている。
すなわち合気道の練習法においては、力に拘泥し力づくで技法を学ぼうとする態度は、最もさけねばならぬことである。
— 『合気道』98頁
植芝盛平を読む。02
最近の合気道界を見ますと、合気道は武道でありながら、「武道の根元は武術にある」と いうことを忘れたのか知らないのか、その技法の中に武道性をまったく見ることができず、「合気道は剣だ、また投げ抑えは当てだ」と言うだけで、その説明も なく、なかには当てや武器技は必要ないと言う者さえ出て来ている状態で、いまやまさに合気道は老人婦女子の健康法となりさがってきております。
— 『許す武道』3頁
植芝盛平を読む。
合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そ のものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わな い。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和 できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。
だから武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わ ぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかし く説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することが できるのである。
合気道(あいきどう・合氣道)は、武道家・植芝盛平が大正末期から昭和前期にかけて創始した武道。植芝盛平が日本古来の柔術・剣術など諸武術を研究し、独自の精神哲学でまとめ直した、体術を主とする総合武道である。
(植芝盛平が創始したもの以外の「合気道」は→“「合気道」の名称について” にて詳述。)
「合気道」とは「天地の“気”に合する道」の意[1]。
柔道・剣道・空手道等と並び、21世紀初頭の日本において代表的な武道の一つである[2]。大東亜戦争(太平洋戦争)終了後、一般社会への普及が始まり、日本のみならず世界で大きく広まった[3][4]。
合理的な体の運用により体格体力によらず「小よく大を制する」ことが可能であるとしている点が特徴。
技の稽古を通して心身を練成し、自然との調和、世界平和への貢献[5]を行う等を主な理念とする。
歴史:成立から展開

合気道の創始者・植芝盛平
1920年(大正9年)、父の死をきっかけに宗教団体大本の実質的教祖・出口王仁三郎に出会い入信、大きな思想的影響を受ける。王仁三郎の勧めで京都の綾部に「植芝塾」道場設立、開墾・建設作業に従事しつつ甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に「合気武術」を教団内で指導する。1924年(大正13年)出口と共にモンゴルに渡り宗教国家建設を目指し活動するも失敗(「パインタラ事件」)、数々の死線をくぐった後帰国、1925年(大正14年)綾部での修行中「突如黄金の光に包まれ宇宙と一体化する」という幻影に襲われる神秘体験に遭遇(「黄金体験」)、「気の妙用」という武道極意と「万有愛護」という精神理念に達する。
身長150cm台の小柄な体躯[6]から特異な技を繰り出す武道家の評判はやがて東京にも及び、1925年(大正14年)海軍大将竹下勇の招請で上京し伯爵山本権兵衛らを前に演武を披露、絶賛を博す[7]。これを機に、後に起こる第二次大本事件を予見した出口の勧めにより1927年(昭和2年)東京へ移住、竹下の紹介で多くの社会的有力者が門人や支援者となった。また次第に武田惣角・大東流と距離を置き始め独自の武道を模索する。1931年(昭和6年)東京牛込に皇武館道場設立。関東・関西に数箇所の道場も開かれ盛平の名声は高まってゆく。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・実業家や武道家の子弟が主で、入門は一部の層に限られていた。[8] 1940年(昭和15年)財団法人皇武会設立。大東亜戦争中は軍部からの要請で陸軍憲兵学校・陸軍中野学校・海軍大学校などで盛平が武術指導を行なう。1942年(昭和17年)戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・大日本武徳会の統制化に入る。(→大日本武徳会合気道)かねてより戦争に批判的であった盛平はこれを機に茨城県岩間町に隠棲する。[9]
終戦後の1948年(昭和23年)に皇武会は「財団法人合気会」として改めて文部省の認可を受け、この時から「合気道」の名称を用いだした。(→“植芝「合気道」の出発”) これにより盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「開祖」と呼ばれる。しかし戦後の混乱、GHQ(連合軍総司令部)の武道禁止政策[10]などにより合気道の復興は困難を極めた。
1954年(昭和29年)日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の弟子・塩田剛三が優勝し、財界人の援助を得て「合気道養神館道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。これに大きな刺激を受け、合気会も本格的な活動を開始する。戦後合気道は、盛平三男で合気会本部道場長・植芝吉祥丸の方針転換により、演武会の開催や技術書の出版などを通し一般に公開される。合気会は盛平を合気道の象徴として前面に押し出す一方、吉祥丸本部道場長、藤平光一師範部長らを実務の中心に据え合気道の普及を図って行く[11]。
1950年代から盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、東南アジア・北南米・欧州など国際的に広まり、1961年(昭和36年)盛平自身もハワイに渡り各地で演武を披露した。2005年(平成17年)時点で合気会だけで85ヶ国に支部道場を開設している[4]。
1969年(昭和44年)盛平死去、吉祥丸が二代目道主となる。その後砂泊かん秀、藤平光一、富木謙治といった高弟の独立が相次ぐが、大学の部活・カルチャーセンターを通しての普及に力を入れていた合気会は着実に会員を増やした。1976年(昭和51年)には合気会傘下の全日本合気道連盟及び国際合気道連盟(IAF)[12]が結成され、IAFは1984年(昭和59年)に国際競技団体総連合(GAISF)の正式会員となり、1989年(平成元年)以降ワールドゲームズ大会に毎回参加している。
1999年(平成11年)合気道の国際的な隆盛を築いた吉祥丸死去。吉祥丸の次男植芝守央が三代目道主となる。合気会の会員は合気道人口の大半を占め、日本国内100万人・全世界で160万人とも言われ、合気道界の多数派・主流派を形成している[3]。
一方盛平の門下及び合気会から独立した複数の団体・会派が存在する。(→“主な会派”)全国・海外にも支部を持つ会派から、それらに属さず特定の地域で独自に活動する団体まで大小様々である。
技・稽古の特徴
※多数会派である合気会を基本に記述する。- 合理的な体の運用により体格体力に関係なく「小よく大を制する」、また投げ技・固め技により、相手を傷つけずに制することが可能としている。(→“技の形態”、“合気と呼吸力”、“「護身術」としての有効性に関する議論”)
- 二人一組の約束稽古(何の技を行うか合意の元に行う)中心。投げ技・関節技が主で打撃技の稽古は少ない。(→“稽古の形態”)
- 試合がない。[13](→“主な会派”)
- 段級位制をとっている。
- 稽古着は柔道・空手などと同系の、白晒し筒袖・前合わせの上衣に、白晒しズボン状の股下(こした)を用いる。成人初級者は白帯、有段者は黒帯と、股下の上に黒袴(スカート状のものではなく、ズボンのように股の割れた「馬乗り袴」)を着用する。[14]
- 柔道と同様、畳上で稽古する。
- 稽古相手相互の座礼・道場正面への礼など一般的な最低限の礼法を除けば、合気道全体で統一化・定型化されたような厳格な礼法は無い。
理念・精神性
「精神的な境地が技に現れる」とされており、他武道に比べ精神性が重視される。これは神道・大本教との関係など[15]、精神世界へ の志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。 このように創始者個人の思想や生い立ちが個々の修行者に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比して強い。その背景には、小兵でありながら老齢に達しても 無類の強さを発揮するなど、盛平に関しての超人的なエピソードが幾つも伝わっており(→植芝盛平・エピソード)、それが多くの合気道家に事実として信じられ、伝説的な武術の“達人”として半ば神格化されていることも大きな理由の一つである。武術をベースにしながらも、理念としては、武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている[16]。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。「和の武道」「争わない武道」「愛の武道」などとも形容され、欧米では「動く禅」とも評される。
近代以降、武道の多くが「剣道(剣)」「柔道(投・極)」「空手(打)」と技術的に特化していったのに対し、合気道では投・極・打(当身)・剣・杖・座技を修し、攻撃の形態を問わず自在に対応し、たとえ多数の敵に対した場合でも、技が自然に次々と湧き出る段階まで達することを求める。この境地を盛平は「武産合気」(無限なる技を産み出す合気[17])と表現し、自分と相手との和合、自分と宇宙との和合により可能になるとしている。[18]
武術とは一見相反する「愛」や「和合」という概念を中心理念として明確に打ち出した合気道の独自性は、第二次世界大戦後・東西冷戦や南北対立下で平和を渇望する世界各国民に、実戦的な護身武術としてと同時に、求道的な平和哲学として広く受け容れられた。またこのような精神性は、盛平の神秘的な言動や晩年の羽織袴に白髯という仙人を思わせる風貌と相まって、盛平のカリスマ性を高める要因ともなった。
盛平の弟子の中には藤平光一を初めとして、多田宏、佐々木の将人のように、ヨガを日本に持ち込んだ中村天風の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という気風を次代に継承している。
技・稽古の形態
技は体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。ただし実際には武器術を指導する師範の割合は多くなく、体術のみを指導する稽古が大半である[19]。技の形態
無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を「呼吸力」「合気」などと表現し、これを会得することにより、また同時に“合理的な”体の運用・体捌きを用いて“相手の力と争わず”に相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく[20]「小よく大を制す」ことが可能になるとしている。- 合気道の技は一般的に、相手の攻撃に対する防御技・返し技の形をとる。[21]
- 相手の攻撃線をかわすと同時に、相手の死角に直線的に踏み込んで行く「入身(いりみ)」[22]や、相手の攻撃を円く捌き同方向へ導き流し無力化する「転換」など、合気道独特の体捌きによって、自分有利の位置と体勢を確保する。
- 主に手刀(しゅとう)を用いた接触点を通して、相手に呼吸を合わせて接触点が離れぬよう保ちつつ、「円の動き・らせんの動き」など「円転の理」をもって、相手の重心・体勢を崩れる方向に導いて行く。このとき無駄な力が入っていると、相手の反射的な抵抗を誘発し、接触点が外れる、力がぶつかって動きを止められる等の不具合が生じ、技の流れを阻害する。そのため「脱力」[23]ということが特に推奨される。また脱力により、リラックスして動ける自由性や、技中に体の重さを効果的に使うことが可能になる。[24]
- また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の正中線上(正面)に相手を補足することにより、最小の力で相手の重心(中心軸)・体勢を容易にコントロールし導き崩す。
- 体勢の崩れた相手に対し投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わずに技を掛けようとしても技は容易に掛からない。(「崩しは厳しく、投げはやさしく」などと言い、崩しを重視する。)
- このように相手との接触点を通じ技を掛ける機微と一連のプロセスを「結び・導き・崩し」と言い、合気道の技の大切な要素として、また精神理念に通じるものとしても強調することがある。[25]
稽古の形態
二人一組の約束組手形式(何の技を使うか合意の元に行う)の稽古が中心であり、「取り(捕り)」(相手の攻撃を捌いて技を掛ける側)と「受け」(相手に攻撃を仕掛けて技を受ける側)の役を互いに交代しながら繰り返し行う。一般的な合気会の道場では、まず指導者が取り・その補助者が受けとなり課題である技の形を示演し、これにならって稽古生各々二人一組となり技を掛け合う。取り・受けは平等に同数回交代しながら行う。片方が10回投げればもう片方も10回投げる。技は右左と「表」(入身で相手の死角に踏み込む)「裏」(転換で相手の背後に回りこむ)をやはり同数回行う。
柔道のような乱取り稽古は通常は行われない[26]。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技など)を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃(「当身」)は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われない[27]。蹴り技・脚を使った絞め技などは基本的には行わない[28]。
この他に、一人の取りに複数の受けが掛かって行く「多人数掛け」[29]や、剣・杖・短刀取りなど武器術・対武器術(→「合気道の武器術」)の稽古も行われる。
基本的な技
- 一教:相手の腕を取り肘関節を可動限界まで伸展させ相手を腹這いにさせ抑える。
- 四方投げ:相手の手首を持ち、入身・転換によって相手を崩し、両腕を振りかぶりつつ180度背転し、“刀を斬る”ように腕を振り下ろすことにより、相手の肘を頭の後ろに屈曲させ脇を伸ばし仰け反らせて倒す。
- 入身投げ:相手の側背に入身して背後から首を制し、転換しつつ相手を前方へ導き崩し、反動で起き上がった相手の頭を肩口に引き寄せ、引き寄せた側の手刀を下方から大きく円を描くように差し上げて斬りおろし相手を仰向けに倒す。
- 小手返し:相手の手首を取り、入身・転換で体を捌きつつ崩し、反対の手を相手の手の甲にかぶせ、手首を返して肘関節を屈曲させ仰向けに倒す。
- 体の転換:相手に片手を掴まれた状態から掴まれた手と同じ半身の足で、相手の足の外側に半歩入身し、更にその足を軸に水平方向に180度背転し、相手と同方向を向き力を丸く捌いて前方へ導き流し崩す。技と言うよりも入身・転換という基本的な体捌きを身に付けるための鍛錬法である。「体の変更」「入身転換」とも言う。[30]
- 座技呼吸法:向かい合って正座した状態から相手に両手首を強い力で掴ませ、指先を上に向けながら手刀を振り上げることで相手の体を浮かせ、そのまま後ろに押して相手の体勢を崩す。大東流の「座捕合気上げ」に似ているが、合気道では「呼吸力の養成法(“呼吸法”の名称はその略である)」として指導されている。
合気会系の道場では、稽古は体の転換から始まり、座技呼吸法を行って終わることが多い。これは怪我を防ぐために体の変更で身体をほぐし、徐々に激しい投げ技を行うよう盛平が制定したからである。[31]
技の呼び方
合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼び方は「技開始時の“受け”・“取り”の位置的関係」または「技開始時の“受け”の攻撃形態」に「上記の固有技名」を組み合わせる。例えば、「受け」が右手で「取り」の左手首を掴んだ状態を「片手取り」または「逆半身片手取り」という。「受け」が手刀を正面から振り下ろす攻撃形態を「正面打ち」、斜め横から振り下ろすのを「横面打ち」といい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。
例:
(位置・攻撃) (技)
- 正面打ち + 一教 = 正面打ち一教
- 片手取り + 一教 = 片手取り一教
- 片手取り + 四方投げ = 片手取り四方投げ
- 横面打ち + 四方投げ = 横面打ち四方投げ
合気と呼吸力
「合気」と「呼吸力」は合気道技法の原理であると同時に、合気道の重要な理念とされる概念。「合気」の歴史的考察
日本における武術用語としての「合気」は、江戸~明治・大正期の剣術書などに認められる。それらは彼我の技量や気迫などが拮抗し膠着状況に陥る、または先手を取られ相手の術中に嵌るといった、武術的には忌避すべき状態を差す言葉であった[32]。しかし明治以降、「合気之術」など積極的な意味の使用例が現れる。この頃の「合気」には「読心術や気合の掛け声をもって相手の先を取る」といった意味付けがなされていた。大正期には各種武術書に同様の意味合いで「合気」の使用が見られ、「合気」が武術愛好家の間で静かなブームになっていたという。[33]大東流合気柔術では、相手の力に力で対抗せず、相手の“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。 なお大東流は初め「大東流柔術」と称していた。この名称に「合気」の文字が加わったことが確認できるのは、1922年(大正11年)、武田惣角が盛平に授与した目録[34]が初めてである。
惣角は同年綾部の大本教団にいた盛平のもとを訪れている。この時に出口王仁三郎が「合気」を名乗るよう盛平に勧め、盛平は「合気」を大東流の名に加えることを惣角に進言、以後惣角もこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言がある。[35]
合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を含むものになった。(盛平は「合氣とは愛なり」[36]と語っている。)
大東流における「合気の技法」的なものから、合気道の体捌きである入身・転換、技に入るタイミング、相手に掴まれた部分を脱力して相手と一体化する感覚など、相手や自然の物理法則との調和・また宗教的な意味合いでの「宇宙の法則」と和合を図ろうとすることなど、技法から理念まで全てを広く「合気」と表現する傾向がある。
呼吸力
「呼吸力」は盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、「合気」を盛平独自の主観を通して表現したものである。[37]合気道における「合気」が主に理念的な意味で広く用いられるのに対し、「呼吸力」は主に「技法の源になる力」という意味合いで用いられる。(ただし理念面でも「呼吸」「呼吸力」は用いられることがあり、両者の違いは必ずしも明確ではない。)
この「呼吸力」が具体的に何の力を指しているかについては、様々な言説がある。盛平は弟子達に合気道の理念、理合を説明する際、古事記の引用や神道用語の使用が多く、難解・抽象的な表現であったため後代様々な解釈が奔出することになる。例えば「呼吸(筋)の力である」「“気”の力である」「実際の呼吸のように自然で無意識的な力の使い方である」「全身の力を統一したものである」など、意見は多岐に分かれる。[38](→「座技呼吸法」)
合気・呼吸力について、小柄な老人がわずかな動きで屈強な大男を幾人も手玉にとり簡単に投げ飛ばしたり押さえ込んでしまう不思議な技、というイメージが一般的に流布し、しばしば怪しげなものとして疑われることも多い。
合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・梃子の原理・錯覚や反射の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられている。また、合気道の呼吸力と大東流など他武術の合気が同一か異なるものかについても意見が分かれる。
ただし
- 「脱力」が合気や呼吸力を発揮する条件であること
- 姿勢や呼吸の重視
- 「臍下丹田」の意識を重視する
合気道の武器術
合気道の稽古で使用される武器は剣(木剣)・杖・短刀(木製・ゴム製など)の三種類である。ただしこのうち短刀は、短刀の攻撃を捌く技(「短刀取り」)の習得のためのみに用いられるものであり、短刀術を目的とするものではない。したがって「合気道の武器術」と言う場合は、剣・杖を意味するのが普通である。剣は
- 「剣取り」(剣による攻撃を素手で捌く、または剣を取りに来た相手に投げ技などをかける)と
- 「合気剣」(剣対剣、またそれを想定した単独の形)、
- 「杖取り」(杖による攻撃を素手で捌く、または杖を取りに来た相手に投げ技などをかける)と
- 「合気杖」(杖対剣、またそれを想定した単独形)
盛平は「合気道は剣の理合である」と言い、剣・杖を重要なものとして語った。徒手技は剣・杖の術理を体術の形で現したものであるとされ[39]、 たとえば徒手の投げ技などにおいては、腕を振り下ろす動作を「斬る」「斬り下ろす」などと表現する。また体術・剣術・杖術に共通する半身の構えは相手の突 きを躱しつつ前方の相手を突くための槍術の構えを反映したものである。他に重い剣を速く振り上げる体の動きと呼吸力との関連を指摘する師範もいる。
盛平は茨城の岩間で斉藤守弘と剣・杖の研究をしたが、一方盛平が具体的に合気道の剣術・杖術を弟子に教えることは限られていた。このため盛平没後の合気道界において、積極的に剣・杖を指導する道場の割合は多くない。また師範により下のように見解が分かれている。
1. 合気道の体術に剣術や杖術の理合が含まれているので、あえて剣・杖を修練する必要がない。
2. 体術のみでは不十分で剣・杖などの武器術も修練する必要がある。…またこの意見も
2-1. 「合気剣」「合気杖」「松竹梅の剣[40]」などを修練する師範(斉藤守弘、引土道雄、小林裕和など)と、
2-2. 他流の剣術や杖術の形を合気道の理合で解釈して修練する師範(西尾昭二、針すなおなど)とに分かれる。
合気道の武器術として最も有名なものは、斉藤守弘が盛平の武器技を整理した「合気剣」と「合気杖」である。
演武会
試合を行わない合気道では、各自の技量の向上と世間一般への普及を目的として、演武会が 開催される。師範・高段者はもとより、初級者・児童に至るまで、各地の合気道家が一堂に会し日頃の稽古の成果を披露するのである。同じ技であっても激しく 叩きつけるように行う者、静かに淡々と行う者など、様々な個性が現れる。このように上下を問わず大勢の演武者が参加する形式の演武会は、戦後二代目道主・ 吉祥丸(当時本部道場長)の発案により始まったものである。1950年(昭和25年)9月末から10月初めにかけて、東京日本橋の百貨店・高島屋東 京店にて合気道初の一般公開演武会が5回に渡り開催された。これは百貨店屋上階の特設ステージ上で、不特定の一般観衆に向かい、盛平を始め師範クラスの高 弟から入門間もない初心者までが技を披露するという、その当時武道界全体で見ても例のない試みであった。また戦前・戦中を通じて厳しく公開を制限され、一 般大衆にとって未だ神秘のベールに包まれていた合気道を、より身近な、誰もが始めることが可能な「開かれた武道」として普及をアピールするために絶好の画 期的イベントであった。
この演武会は連日多くの観客を集め、またマスコミにも取り上げられるなど成功を収め、合気道が世の中に普及する大きな分岐点となり、これ以降、各会派が定期的に演武会を開催することになった。中でも合気会が日本武道館で毎年行う「全日本合気道演武大会」[41]は国内外最大規模の演武会である[42]。また他武道でも同形式の演武会が開かれるようになった。[43]
他武道・他武術との関係
大東流合気柔術との相違点
大東流と合気道には、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性に鮮明な相違が認められる。盛平の合気道は古来の武術と一線を画して、「万有 愛護」や「宇宙との和合」を目指す、といった理念的傾向が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられ、親英体道にも同様の思想性が見られる。 大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。[44]柔道との交流
1930年(昭和5年)10月、竹下勇の紹介で講道館柔道創始者・嘉納治五郎が講道館幹部二人と共に盛平の道場を訪れた。この頃嘉納は、競技スポーツ化した柔道が勝敗に囚われる余り精神性を軽んずる弊に陥り、「武道の競技化・体育化による人格教育の実現」という嘉納の理想が形骸化しつつある傾向に危機感を抱いていた。その反省から私的に「古武道研究会」を主宰し、古武道諸流派の保存と伝承に務め、それを以って武道教育に精神性の復活を図ろうとしていた[45]。そのような経緯の元、初めて盛平の技を見た嘉納は「これこそ私が理想としていた武道、本当の柔道だ」と賞賛した。[46]盛平の技に魅了された嘉納は講道館から当時若手の有望株であった望月稔を派遣し合気道の修行に当たらせた。盛平の有力な弟子であった富木謙治、塩田剛三らも、盛平に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は盛平の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。剣道との交流
盛平は剣術の研究のために、戦前自らの道場「皇武館」で剣道の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった中山博道(神道無念流)の3人の高弟で「有信館の三羽烏」と呼ばれた中倉清(当時は盛平の婿養子)、羽賀準一、中島五郎蔵が行った。空手との交流
空手の経験者で盛平に師事した人物も少なからずおり、戦前に入門した弟子としては望月稔、小西康裕が、戦後の門弟では有川定輝、千葉和雄、西尾昭二が知られている。いずれも空手の捌きに合気道の円転の理を応用したり、逆に空手の打撃を参考に合気道の当身と捌きの関係を研究し、より実戦的な技法を模索した。健康法としての合気道
合気道は健康法としても人気がある。攻撃してくる相手の力を利用するので(空手や柔道のようには)強い筋力を必要とせず老若男女を問わず誰でもはじめることができ、和合の精神を重視し、また活動は〔組み手稽古〕(試合形式ではなく、二人一組で行う稽古)が中心であることから、健康法としても人気が高く、広く定着しているのである。例えば以下のようなことが言われている。
- 試合がないので、勝つための過剰に激しい稽古をする必要が無く、年齢体力にかかわらず無理なく自然に心身・足腰の鍛練ができる。
- 合気道の稽古は、技を左右同じ動きで同回数繰り返すため、左右の身体の歪みを取る効果がある。
- 受身で畳の上を転がることにより、血行を促す。また受身の習得で転倒による怪我をしにくくなる。
- 関節技を掛けられることによってストレッチ効果が得られ、関節・筋肉の老化防止や、五十肩などの予防になる。
準備運動
合気会系の多くの道場で、稽古の始まりに盛平の考案による準備運動を行うのが慣例となっている。身体各部の柔軟などと共に、古神道の禊の行法「天の鳥船」(「舟漕ぎ運動」)「振魂」(「振りたま」)[47]が採り入れられ、また「西式健康法」や「真向法」も取り入れられている。護身術としての合気道
合気道は「非力な女性の護身術として最適」と喧伝されている[48]。ただし、護身術としての有効性については、疑問を呈する人もいる。これらの疑念について、合気会は「日々の鍛錬をきちんとやれば基礎を何度も修練している内に体得できる。実際に使えるようになる」という見解を示している[49]
主な会派
※独立年次順、「組織名(流儀名・通称):独立年~、創設者」- 公益財団法人 合気会 (「合気道」):1940年(昭和15年)~(「財団法人 皇武会」→1948年(昭和23年)~「財団法人 合気会」)、植芝盛平
- 合気道創始者・植芝盛平の興した合気道界の最大会派。合気道人口の8割を占めると言われる。日本武道協議会加盟。
- 公益財団法人 合気道養神会 (「養神館合気道」):1956年(昭和31年)~、塩田剛三
- 養正館 (「養正館合気道」):1963年(昭和38年)~、望月稔
- 万生館合氣道:1969年(昭和44年)~、砂泊諴秀
- 盛平の高弟・砂泊諴秀が設立。九州一円に普及。
- NPO法人 日本合気道協会(「昭道館合気道」「富木流」):1974年(昭和49年)~、富木謙治
- 盛平の高弟・富木謙治が設立。柔道を参考に乱取り稽古や試合を取り入れ、大学合気道などの一部で普及。
- 一般社団法人 心身統一合氣道会(「心身統一合氣道」「氣の研究会」):1974年(昭和49年)~、藤平光一
- 盛平の高弟・(財)合気会の師範部長であった藤平光一が設立。「氣」を重視する。毎年「全日本心身統一合氣道競技大会」(体技競技審査会)という形審査形式の試合を行っている。
- 合気道S.A.:1991年(平成3年)~、櫻井文夫
- 塩田剛三の高弟・櫻井文夫が設立。他流派からの参加も受け入れた打撃ありの組み手試合を行っている点が特徴。
- NPO法人 岩間神信合氣修練会 (「岩間流合気道」「岩間スタイル」):2004年(平成16年)~、斉藤仁弘
- 盛平の高弟・斉藤守弘の息子である斉藤仁弘が設立。「合気剣・合気杖」など盛平晩年の合気道を伝えているとされており、海外にも影響力を持つ。
合気道経験者
(※ 生年順)- 浅野正恭…海軍中将。心霊研究家。弟の浅野和三郎が大本の幹部であった縁で大正末期盛平に入門、綾部で指導を受ける。同じ海軍の竹下勇に「凄い武道家がいる」と盛平を紹介し、盛平が世に出るきっかけをつくった。
- 竹下勇…海軍大将。第14代連合艦隊司令長官。第3代大日本相撲協会会長。1925年(大正14年)盛平を東京に招請、軍政財界の要人に盛平を紹介し、武道家としての盛平を世に知らしめた。門人として献身的に盛平を支え、公私に渡り強力な支援者となる。(財)皇武会(合気会の前身)初代会長。
- 二木謙三…医学博士。東京帝国大学医学部教授。日本医学界の重鎮。昭和初期~十年代、毎朝内弟子の寝込みを襲い、叩き起こしては朝稽古に励んだという。(財)皇武会理事。昭和18年頃には大病を患った盛平のために交通事情の悪い中を茨城県岩間まで往診した。[50]
- 三浦真…陸軍少将。1930年(昭和5年)入門。日露戦争で銃剣で胸を刺し貫かれる重傷を負いながら敵兵を軍刀で斬り倒し続け、一躍当時の英雄となった。武田惣角の弟子であり、盛平の分派独立に憤慨し道場破りに来たが、盛平の技に感嘆しその場で入門した。自らが校長を務める陸軍戸山学校の武道指導者として盛平を招いた。[51]
- 山本英輔…海軍大将。第19代連合艦隊司令長官。1927年(昭和2年)頃入門。
- 高橋三吉…海軍大将。1928年(昭和3年)入門。盛平を自らが校長を務める海軍大学校の武道講師に招聘した。
- 百武源吾…海軍大将。徹底した対米協調・避戦派。海軍を追われた後、第7代九州帝国大学総長。1928年(昭和3年)入門。
- 近藤信竹…海軍大将。1928年(昭和3年)入門。
- 中里介山…小説家。代表作「大菩薩峠」で有名。1929年(昭和4年)入門。
- 柳原白蓮…歌人。大正三美人の一人。大正年間当時一大スキャンダルとなった「恋の逃避行」中に綾部の大本教団に身を寄せ、植芝塾の稽古に熱心に通ったという。また昭和以降上京後も盛平から弟子の就職の世話を頼まれるなど交流が続いた。[52]
- 岡田幸三郎…実業家。塩水港精糖社長。1926年(大正15年=昭和元年)入門。(財)合気会理事。皇武会の設立・財団法人認可申請を立案・尽力。
- 藤田欽哉…実業家。ゴルフコース設計者。霞ヶ関カンツリー倶楽部創設者。日本ゴルフ界の草分け。1926年(大正15年=昭和元年)入門。皇武会・合気会の設立・財団法人認可申請を立案・尽力。(財)合気会理事。[53]
- 東条英機…陸軍大将。第40代内閣総理大臣。1934年(昭和9年)関東軍司令官の時に、憲兵隊に武術指導に来た富木謙治(盛平高弟)の技を絶賛し、自らも熱心に学んだ。[54]
- 前田利為…陸軍大将。華族(侯爵・加賀前田家16代当主)。盛平を自らが校長を務める陸軍大学校の武術指導者に迎えた。(財)皇武会理事。
- 尾上菊五郎(六代目)…歌舞伎役者。1929年(昭和4年)入門。
- 市川猿翁(二代目猿之助)…歌舞伎役者。1929年(昭和4年)入門。
- 石井光次郎…政治家。第54代衆議院議長。日本体育協会会長。自民党石井派の領袖として副総理、法務大臣など主要閣僚を歴任。1928年(昭和3年)朝日新聞勤務時代に入門、朝日新聞大阪本社に盛平指導道場を設立させるなど朝日社内に合気道を広めた。(財)合気会理事。盛平の葬儀では友人代表を務めた。[55]
- 大石ヨシエ…政治家。婦人運動家。女性初の代議士の一人。大本時代(大正年間)綾部の植芝塾道場に入門。
- 富田健治…内務省官僚。政治家。第45代内閣書記官長。第25代官選長野県知事。貴族院議員。戦後代議士。大阪府警察部長の時、第二次大本事件で警察に拘束された盛平の窮地を救った。(財)合気会初代理事長。
- 西勝造…西式健康法創始者。土木工学者・技術者。合気道(合気会)六段。(財)合気会理事。藤田欽哉と共に合気会の財団法人認可に尽力。胃腸障害に苦しむ盛平に野菜食を指導した。
- 賀陽宮恒憲王…皇族。陸軍中将。陸軍戸山学校長、陸軍大学校長、師団長などを歴任。1938年に盛平が出版した技術書『武道』は、当時盛平が個人指導を行っていた賀陽宮のための解説書として作られたものであった。[56]
- 友末洋治…政治家。官選第45代、民選初代~第3代茨城県知事。皇武会の財団法人化に厚生省担当官として尽力。
- 天竜三郎…大相撲力士(関脇)。相撲解説者。相撲界改革を訴えた春秋園事件で知られる。1939年(昭和14年)、満州国での演武会で盛平に腕試しを挑み投げられたのをきっかけに入門[57]。
- 高松宮宣仁親王…皇族(大正天皇第三皇子)。海軍大佐。海軍大学在学中(1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年))武術師範であった盛平に指導を受けた[58]。
- 野間恒…講談社第2代社長。剣道家(剣道教士)。昭和天覧試合等で優勝し「天才剣士」「昭和の大剣士」と称された。1935年(昭和10年)以降に盛平に入門、野間により撮影された当時の盛平の技の写真が数百枚有ることが知られている。[59]
- 中倉清…剣道家(剣道・居合道範士九段)。警察官。剣道公式戦69連勝という前人未踏の記録を樹立、「昭和の武蔵」と称される。師の中山博道が盛平と親しかった縁で、共に「有信館三羽烏」と呼ばれた羽賀準一、中島五郎蔵と、新設された「皇武館道場剣道部」で活動した。1932年(昭和7年)に盛平の婿養子となるが1937年(昭和12年)に離縁。[60]
- 園田直…政治家。第110代外務大臣。合気道(合気会)八段。(財)合気会理事。全日本合気道連盟会長。盛平の死去に際して葬儀委員長を務めた。
- 鎌田茂雄…仏教学者。天道流合気道六段。
- 荒川博…プロ野球選手・監督。1956年(昭和36年)、合気会本部道場に入門。合気道(合気会)六段[61]。合気道から着想した打撃理論で王貞治に「一本足打法」を指導、ホームラン王に育てる。
- 海部俊樹…政治家。第76・77代内閣総理大臣。合気道(合気会)三段[62]。(財)合気会理事。
- 広岡達朗…プロ野球選手。合気道(合気会)三段[62]。監督として弱小球団であったヤクルト、西武を日本一に導く。2010年(平成22年)1月、アメリカ大リーグ・ドジャースに臨時コーチとして合気道を指導[63]。
- 針すなお…漫画家。合気道(合気会)七段[64]。佐賀の合気道道場「高伝館」館主。
- 榎本喜八…プロ野球選手。合気道(合気会)三段[62]荒川博と共に合気道を参考にした打法を研究、「安打製造機」「打撃の神様」と呼ばれる。[65]
- 亀井静香…政治家。第15・16代特命担当大臣(金融・郵政改革)。第2代国民新党代表。養神館合気道六段[2]。東大合気道部で主将を務めた。1961年(昭和36年)に全日本学生合気道連盟を結成、初代委員長となる。(財)合気会理事。
- 小渕恵三…政治家。第84代内閣総理大臣。昭道館合気道(富木流)四段[62]。
- 鈴木邦男…政治活動家。昭道館合気道(富木流)三段。
- 杉良太郎…俳優。養神館合気道五段[64]。
- 倉田保昭…俳優。合気道二段[66]。
- 永倉万治…作家。最晩年に合気会支部道場入門、死の直前まで学ぶ。[67]
- 内田樹…思想家。神戸女学院大学文学部名誉教授。合気道(合気会)六段[68]。
- 由美かおる…女優。合気道(合気会)三段[69]。
- スティーブン・セガール…俳優。青年時代に来日、大阪で合気道を学び道場長を務めた後、ハリウッドに渡りアクション映画スターとなる。合気道(合気会)七段[64]。
- 加来耕三…歴史家。作家。合気道(合気会)四段[70]。
- 堤大二郎…俳優。天道流合気道初段[71]。
- 小西博之…俳優。「[特 技] 合気道」(公式プロフィールによる)。
- 加藤鷹…AV男優。「合気道初段」(公式プロフィールによる)。
- 加藤雅也…俳優。「特技:合気道」(公式プロフィールによる)。
- 葛城奈海…タレント。合気道(合気会)五段。
- 大月晴明…キックボクサー、K-1選手。昭道館合気道(富木流)を学び、この技術を取り入れ高いKO率を誇る。WPKC世界ムエタイライト級王者。[72]
- 斉藤工…俳優。「趣味 合気道」(公式プロフィールによる)。
- 秋元才加…アイドル歌手(AKB48メンバー)。合気道二段[73]。
合気道を重要テーマとするメディア作品
小説
- 津本陽著『黄金の天馬』(ISBN 4569673775) - 植芝盛平をモデルにした伝記小説。
- 火野葦平著『王者の座』(弥生書房 1958年・絶版) - 天竜三郎を主人公にした小説。
- 山田克郎著『王者の庭 合気道 植芝盛平伝』(浪速書房 1959年)
- 和巻耿介著『王道の門 疾風編』(ISBN 4334710263)、『王道の門 迅雷編』(ISBN 4334710484 ) - 盛平をモデルした冒険小説。
- 牧野吉晴著『飛燕合気道』(報知新聞社 1970年) - 塩田剛三をモデルにした長編小説。
- ガディエル・ショア著『合気道小説 神技 - Kami‐Waza』(ISBN 4862203159) - 「2172年フランスの合気道学校“アイキ・リブリウム”で開祖植芝盛平の最高技法“神技”を蘇らせる試みがなされていた」という設定のSF武道小説。
ノンフィクション
- 増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 - 柔道史上最強の木村政彦の親友として塩田剛三が出てくる。また木村のライバルの師匠として植芝盛平も登場する。
漫画
- 武富智著『EVIL HEART』(イビル ハート) - 心に傷を負う反抗的な中学生の少年が、合気道に出会い成長していく姿を描く。
- 板垣恵介著『グラップラー刃牙』 - 塩田剛三をモデルとした重要キャラクター「渋川剛気」が“地下闘技場”で戦う、という格闘漫画。渋川の師として植芝盛平がモデルになったと思われる御輿芝喜平もでている。
- 安彦良和著『虹色のトロツキー』 - 満州国・蒙古・シベリアを舞台とする歴史劇。主人公の武道の師匠として盛平が、また富木謙治、天竜三郎も登場する。盛平が関わった「パインタラ事件」が物語の重要な鍵として語られる。
- 山岡朝作画 植芝守央監修 『劇画 合気道開祖 植芝盛平物語』- 植芝吉祥丸著『合気道開祖 植芝盛平伝』(出版芸術社 1999年)の劇画化。盛平の生涯をその生誕から描く。著名なエピソードはほとんど描かれている。作画者は合気会に入門し、稽古を重ねた上で本作を手がけた。
映画
- 『激突! 合気道』(1975年) - 盛平若き日の活躍を描く東映アクション映画。千葉真一扮する空手家との岩場での決闘がクライマックス。
- 『あいのこころ』(2008年) - 福島県二本松市を舞台に、合気道を通して4人の高校生が友情を深め合う姿を描く青春映画。
「合気道」の名称について
21世紀初めの時点で「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平の興した合気道を指すが、実は「合気道」の名を用いたのは盛平が最初ではなく、盛平とは別系統の「合気道」が存在する。また「合気道」という名称には“合気系武道(・武術)”全般を通称的に指し示す普通名詞としての一面もある(→例)。「合気道」の初出と命名
大日本武徳会合気道
盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした。盛平は自他共に認める「忠君愛国の士」ではあったが、大東亜戦争の開戦には批判的であった。しかし「愛」と「和合」を旨とする自らの武道を、その精神を封殺しただの戦闘技術としてのみ軍に供せねばならない矛盾に耐えつつ、憲兵学校武術師範等の職務を篤実に務め続けた。[74]
昭和17年(1942年)、戦時政策により武道界も政府の外郭団体・大日本武徳会の統制化に入ることになる。盛平率いる皇武会もその例外ではなかった。一代で育て上げた自らの武道に強い誇りを持っていた盛平にとって、この統合は不本意なものであった。
統合にあたり、盛平は武徳会から「総合武術部門」設立についての協力要請を受けたが、これに対し皇武館道場の「総務」として渉外を担当していた門人平井稔を推薦し、これを機に自らは各団体顧問・軍での武術指導など一切の公職を辞し、かねて土地を買い集めていた茨城県岩間町に隠棲する[9]。平井は盛平の委任を受け、大日本武徳会の幹事に就任した。
この時武徳会に設置された「合気道部」と、“総合武術”(体術・剣術などを総合的に扱う武術)として制定された「大日本武徳会合気道」が固有武道名称として初めて確認できる「合気道」である。 平井がこの合気道部の運営に当たった。[75]
「合気道」の命名は、講道館から武徳会役員となった久富達夫が 主唱したことを平井が証言している。この時久富は、「総合武術部門は剣杖などの要素も包括的に含めたい。そのため従来から在る各武術流派との軋轢を生じさ せぬよう、特定流派を連想させず、また勇ましさを前面に出したものでなく、当たり障りのない柔らかい印象の名前が良い」として「合気道」を提唱したとい う。[76]
吉祥丸・守央・合気会の著作物では「昭和17年(1942年)武徳会への統合に際して、盛平は正式に『合気道』の呼称に統一すると宣言した」としている。[77]しかし一方、盛平や門人の奥村繁信は「合気道と名乗ったのは戦後だ」と述べている。[78] 吉祥丸・守央の著作からも、武徳会合気道部への統合には相当の抵抗感があったことが記されており[79]、「合気道」の呼称が実際に皇武館側に受け入れられていたかどうかについても前記の通り証言に食い違いがある。
植芝「合気道」の出発
昭和20年(1945年)終戦により武道統制は消滅、翌年GHQ(連合軍総司令部)の命令により大日本武徳会は解散する。平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして「光輪洞合気道」を興すが、盛平の武道とは別系統の、平井独自の武道であるとしている[80]。盛平が正式に「合気道」の名称を用い出した時期として確実なのは、昭和23年(1948年)2月9日、財団法人合気会の文部省による認可の時点である。合気会認可直前は「武産合気(たけむすあいき)」と称していたとする証言がある。[81]
「合気道」を名乗った経緯について、盛平は生前ラジオのインタビューの中で、文部省の「中村光太郎」という人物に勧められたからであると語っている。[82]当時のGHQの武道禁止政策[10]への対応としても、武術的な勇ましさを主張しない「合気道」という名称は好都合であった。[83]
植芝系以外の主な合気道
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