2014年9月19日金曜日



古田 重然(ふるた しげなり[3]、-しげてる[4])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名。一般的には茶人古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している[5]千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


武将・重然

天文12年(1543年)、美濃国本巣郡山口城主・古田重安の弟で古田重定(勘阿弥、還俗主膳重正と改名したという)の子として生まれ[6]、後に伯父重安の養子となったという。『古田家系図』[7]に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[8]。しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない[9]
古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた[10]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚[11]
天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[12]。 その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[13]と少ないながらも武将として活動している。
信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話[14]が残る。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐四国平定にも秀政と共に出陣している[15]。 同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した[16]。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州征伐[17]小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる[18]

茶人・織部とその友誼

天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、その地位を継承するかのように天下の茶人となった。慶長3年(1598年)には嫡男の重広に家督を譲り隠居した[19]
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
この時期の重然は茶の湯を通じて朝廷貴族寺社・経済界と様々なつながりを持ち、名実ともにまさしく天下の茶人として全国の大名に多大な影響を与える存在であり、二代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されている。

最期

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のおりに重然の茶頭である木村宗喜豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代板倉勝重に捕らえられた。重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた[20]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日7月6日)に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。同時に重広も切腹、宗喜も処刑されている。古田家は断絶。
茶道の師である千利休同様反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなかった。また、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々 なつながりを持ち、全国の大名にすら多大な影響力を与える存在にもなっており、このため古田氏は幕府からその影響力・存在を危険視されるようになったと考 えられている。
なお、次男・重尚(前田利常家臣)、三男・重広(池田光政家臣)、四男・重行(豊臣秀頼家臣)、五男・重久がいたとされるが、史料で確認出来ない。重然の妻の隠居所が興聖寺の塔頭にあったといい、そこには重然の墓の左右に墓石が並んでいる[21]



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