2014年9月19日金曜日


露地

松花堂茶室「竹隠」の露地
露地(ろじ)とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。露地はまた、一般的には屋根など覆いのない地面を称し、ハウス栽培・ハウス園芸に対し「露地栽培」、また、栽培する農産物の名を付して「露地いちご」などと呼称する。
本項では、茶庭としての露地について説明する。


概要

露地は、本来は「路地」と表記されたが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいて、「露地」の名称が登場している。これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。

発生と発展

小間の茶室に付随する簡素な庭園は、広大な敷地を持つ寺院などではなく、敷地の限られた都市部の町屋において発達したと考えられる。こうした町屋では間口のほとんどを店舗にとられていたため、「通り庭」と呼ばれる細長い庭園が発達していたが、さらに茶室へと繋がる通路、「路地」が別に作られるようになった。『山上宗二記』にはの市中にあった武野紹鴎の邸宅の四畳半の茶室の図が掲載されており、図によればこの茶室が「脇ノ坪ノ内」という専用の通路と「面(おもて)ノ坪ノ内」という専用の庭をもっていたことがわかる。同じころ奈良の塗師松屋松栄が設けた茶室の図には飛び石の記載があり、また待合の原型と思われる「シヨウギ(床几)」の書き入れもある(「松屋茶湯秘抄」)。
千利休の時代には更に茶室の建築が盛んとなったが、当時の数寄者達はこぞって建築の創意工夫をしていた時期であり、いわゆる利休風の茶室もこうした状況で熟成された。千利休は晩年にいたって草庵風の茶を完成させ、田園的・山間的情趣を表現の主題とし、茶の室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとしている。
腰掛待合(相楽園茶室、神戸市
なお躙口(にじりぐち)の発生に関しては資料が不足しており、流布している利休の創作という主張も確たる根拠があるわけではない。但しこの躙り口によって、それまで中立ちに際しての待合に用いられていた縁側が取り除かれ、腰掛待合が別に設けられるようになった。また手水鉢に代わるつくばい(蹲踞)もこの時期に完成したものと考えられる。
露地には樹木等は里にある木も植えず人工を避け、できるだけ自然に山の趣を出すため、庭の骨組みをつくるのは飛石手水鉢である。後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになるほか庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれ、また廃絶や改修で不要となる橋脚や墓石などが茶人に見立てられ、庭の重要な景として導入されていく。こうした茶室の構造は敷地の広い寺院や武家屋敷にも取り入れられるようになり、中潜りや腰掛待合とつくばいを備えた現在の茶席に見るような様式化した茶庭が成立する。
こうして町衆の人々に育まれた茶の湯や茶庭はやがて、利休の弟子で武家茶道を発達させた古田織部小堀遠州のような武将の手に移るころには、かなり内容が変化している[注釈 1]
露地は広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなり、途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり、また見る要素を強くするようになる。平庭に近かった露地に築山をもうけ、流れや池までもつくり、また石灯籠が重要な見どころとなっていく。ここには寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があったがこうした庭園の例としては桂離宮の庭園が現存する。
織部や遠州の茶や庭園は利休のそれに比べると作意が強いといわれ、利休が作意をも自然らしさの中に含みこもうとしたのに対し、織部の鑑賞を重視した茶庭には、作意が表面に押し出され、飛石や畳石を打つときは大ぶりなもの、自然にあまり見られない異風なものを探し求めたとされる。それまで飛石には小さい丸石を使っていたのを織部は、切石のしかも大きいものを好んで用いているほか、自身が考案したと伝えられる織部灯籠のきりっとした形は彼の作風がよく現れ、露地にあっても作意の横溢したこの「織部灯篭」をつくばいの鉢明かりとして据えるなど興趣をこらしている。なおこの織部灯篭は、その竿部分にマリア像らしき像を掘り込んでいることから別名「キリシタン灯篭」ともいい、織部がキリシタンであったとの憶測も呼んでいるが、像がマリアであることも織部がキリシタンであったこともともに確証はない。
織部の弟子である小堀遠州は作庭の名人として知られるが、席中の花と庭園の花が重複することは興を削ぐとして禁止し、以後の茶道界の大部分で慣習となっている。

露地の植栽

利休の侘び茶は「市中の山居」を追究するものであり、茶庭における植栽もカシヒサカキなどの目立たない常緑広葉樹、また、マツなどのような山里の風趣を感じさせる樹木を推奨した[1]。それに対し、美観を重視した古田織部は、植栽においてもヤマモモ(楊梅)やビワなど果実をつける木の栽培を一本のみなら許容し、ソテツシュロなど異国情緒を感じさせる、いわゆる「唐木」の植樹を推奨した[1]。「きれいさび」の美意識で知られる武家茶人の小堀遠州は、香りや彩りによって季節感を演出できるモクセイモッコク(木斛)の植栽を勧めた[1]。露地は茶室建築と一体のものとして扱われたと同時に茶人の好みを強く反映するものであり、それは構成の面ばかりではなく、植栽の面でもあらわれた。



千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。


名・号

幼名は与四郎(與四郎)、のち法名宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。
広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は(いみな)の「宗易」を使用し、後に宮中参内に際して(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。
号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。

生涯

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。
天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている[1]
人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)
今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)
利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われている。

死の原因

利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」[2][3]とする説が知られているが、その他にも様々な説があり、詳しくは分かっていない。また、秀吉は蟄居を命じただけで死罪までは企図していなかったが、利休が一切の弁明をしなかったために切腹を命じたとする説もある。
  • 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれたという説[4]
  • 天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢庭石などに使ったという説[5]
  • 秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説[6]
  • 秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、信楽焼茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉からその茶碗を処分するよう命じられたが、聞く耳を持たなかったために彼の逆鱗に触れたという説[7]
  • 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にその事を恨まれたという説[8][9]
  • 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたという説[10]
  • 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説[11]
  • 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説[12]
  • 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説[13]
  • 利休が修行していた南宗寺徳川家康と繋がりがあり、家康の間者として茶湯の中にを入れて、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説[14][15]

死後

千利休の自害後、聚楽城内にあった利休聚楽屋敷[16]は、秀吉の手によって取り壊された。利休七哲の一人である細川忠興創建の大徳寺高桐院にはこの利休屋敷の一部と伝えられる書院が遺る。十数年後、この屋敷跡地は、忠興の長男・長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。
茶の湯の後継者としては先妻・宝心妙樹の子である嫡男・千道安と、後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安千紹二の名前が挙げられる。ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、その他にも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。
利休死後数年を経て(文禄4年(1595年)頃)、徳川家康や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免された。道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期姻戚関係が生じる。
三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。件の木像は今日庵に現存する。

利休の茶の湯

  • 「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとする後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集六百番歌合に出詠)の藤原家隆の歌、「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による『山上宗二記』が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。
  • 利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
  • 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、 土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの 障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このこと により茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や 風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。 利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
  • 露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。
  • 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

人物・逸話

  • 現存している利休の甲冑(不審菴蔵「伝千利休所用 紺糸威縫延二枚胴具足」)から推定[要出典]すると身長は180cmほどで、当時としてはかなりの巨躯だったとされる。利休没後100年頃に成立したと推定される『南方録』滅後にも利休が大男であったという記述がある[17]
  • ある朝、秀吉が利休に茶会に招かれると庭の朝顔が全て切り取られていた。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、一輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動した[18]
  • 秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。不思議に思った周囲が尋ねると「少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えたという。
  • 弟子の古田織部の茶席で籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り、「この事に関しては私が弟子になりましょう」とまで述べた[19]
  • ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。利休は突然の訪問にも関わらず手入れされている邸内や、庭で柚子の実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしない蒲鉾が 出されたところで顔色を変えた。実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えた上で素知らぬ態で突然の客でも十分に もてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄 に失望しその場で退席した[20]
  • 福島正則細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた[21]
  • 切腹を命じにきた秀吉の使者に対しても動じず「お茶の支度が出来ております」と述べた[22]

足跡

千利休屋敷跡
堺市堺区宿院町西1丁)
利休居士四百年記念碑
九州大学馬出地区内
  • 大阪府堺市堺区宿院町西1丁の中浜筋沿いに利休の屋敷跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。千家茶道の発祥と発展に伴い、周囲には堺を代表する和菓子店が多数存在し、中には豊臣秀吉が名付けたものもある。
  • 京都市上京区晴明神社内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の百舌鳥野(現在の大仙陵古墳周辺か)に「もずの屋敷」、京都五条堀川辺りに「醒ヶ井屋敷」、同じく東山大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府島本町山崎に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられ、京都府乙訓郡大山崎には茶室待庵国宝)が現存する。
  • 現在でも「利休饅頭(同種の菓子に利久饅頭の別名もあり)」というお茶受けのお菓子が各地にある。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州遠征のとき同行し筥崎宮に20日あまり滞在したとされる。このとき、秀吉は黒田休夢黒田孝高(官兵衛)の叔父)らと浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)で茶会を催した。このとき利休は秀吉の命により、に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされる。

作品

利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。樂家初代・長次郎をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせるとともに、みずからも茶室の設計、花入茶杓の製作など道具の製作にも熱心であった。紹鴎の時代にあってもまだ煩雑であった茶会の形式をさらに簡略化するとともに、侘び道具を製作・プロデュースして、多くの支持者・後継者に恵まれたことが、利休を侘び茶の完成者と言わしめる由縁である。
  • 茶室待庵京都府大山崎町所在。利休作といわれる。国宝
  • 黄金の茶室 : 豊臣秀吉の命により製作。
  • 書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など
  • 書状「寄進状」
  • 書「孤舟載月」
  • 竹花入「園城寺」「尺八」「夜長」
  • 茶杓「なみだ」「面影」

出自・系譜

利休の祖父は、『千家系譜[23]によれば、
里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤
と説明されており、新田里見氏の一族田中氏の出身とされる。また『千利休由緒書[24]には、
利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎 義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之 名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。
と書かれており、利休の祖父の名は初めは専阿弥、のちに千阿弥といい、足利義政同朋衆であったので、その子、田中与兵衛(利休の父)がその阿弥号の千の字をとって千姓を称したとされる。
ただし、「阿弥」号は当時の時宗門徒などには極めてありふれたものであったから必ずしも同朋衆に結びつくものではない。この説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫である江岑宗左によるものであり、利休の同時代史料には見当たらないところから内容を疑問視するむきがある。たとえば芳賀幸四郎は、「千利休由緒書」の伝承は『応仁記』巻第二「室町亭行幸之事」に名のみえる「同朋専阿弥」を参考にしたのではないかと指摘する[25]。また村井康彦は、「利休の祖先が義政の同朋衆であったとするなら(中略)千阿弥は利休の祖父というより曾祖父」でなければ時代が合わないと疑義を呈している[26]。中村修也は、「利休の祖父が足利義政の同朋衆であったという確たる史料はなく、むしろ創作された家伝と見るほうが無難である。ただし、この記事は田中姓から千姓に代わった経緯を説明する役割を担っており、その意味では、千家がもとは田中姓であったことは疑いあるまい」[27]としている。
さらに、山上宗二の『山上宗二記』(天正16年(1588年))は、利休のことを田中宗易、利休の長男を田中紹安(後の道安)と記しており[28]、 利休の晩年に至っても姓としては田中の方が通っていたと考えられることから、利休の父の代に田中姓を千姓に代えたのではないとする向きもある。たとえば神 津朝夫は、「利休の父が田中姓を千姓に改めたというのも正しくない。『山上宗二記』には「田中宗易」と明記されており、利休の本姓は依然として田中だった ことがわかるからだ」と指摘し、「千」は利休以前から続く田中家の屋号であるとしている[29]

家族

  • 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - 天正5年7月16日1577年8月10日))
    先妻お稲。三好長慶の妹。天文11年(1542年)頃に利休に嫁ぎ、一男四女をもうけた。しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる。
  • 宗恩(そうおん、生年不詳 - 慶長5年3月6日1600年4月19日))
    後妻おりき。元は能役者の宮王三入の妻で、一男(後の少庵)をもうけた。天文22年(1553年)頃、夫に先立たれる。天正6年(1578年)兼ねてより縁のあった利休が前年に妻を亡くしていたため、利休と再婚した。宗恩は新たな袱紗さばきを提案するなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。
  • 千道安
    長男。母は宝心妙樹。
  • 宗林(そうりん、生没年不詳)
    次男。母は宗恩。夭折し、父母を悲しませたという。
  • 宗幻(そうげん、生没年不詳)
    三男。母は宗恩。夭折した。
  • 田中宗慶
    一説に庶長子。
  • 清蔵主(せいぞうしゅ、生没年不詳)
    庶子。明叔寺を号。
  • 千少庵
    養嗣子。宗恩の連れ子。
  • 千少庵(生没年不詳)
    長女。母は宝心妙樹。永禄元年(1558年)頃、茶人千紹二に嫁いだ。
  • 不明(生没年不詳)
    次女。母は宝心妙樹。天正4年(1576年)頃、利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。天正17年(1589年豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、後の利休の自害の遠因になったという説がある。夫が没すると、実家に戻った。
  • 三(生没年不詳)
    三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる石橋良叱に嫁いだ。三の逸話は一説には彼女の事とも言われる。
  • 吟(生没年不詳)
    四女。母は宝心妙樹。天正12年(1584年本能寺の僧侶円乗坊宗円古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
  • 不明(生没年不詳)
    五女か。魚屋与兵衛に嫁いだ。
  • 亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日1606年11月29日))
    末女、六女か。名は長(ちょう)とも。天正4年(1576年)頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子千宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。
また、偽書『南方録』によれば三・亀を除くいずれかの女子が、天正19年1月18日1591年2月11日)に自害したという。




蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。子に蒲生秀行

生涯

幼少時

蒲生氏藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。[1]近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。

織田家臣時代

信長は氏郷の才を見抜いたとされ、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をした。岐阜の瑞竜寺の禅僧南化和尚(玄興)に師事され、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。なお、本項では一部を除いて氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。
永禄11年(1568年)の北畠具教具房との戦いにて初陣を飾る。永禄12年(1569年)の伊勢大河内城の戦いにも参戦し、戦後、信長の娘の冬姫を娶って日野に帰国した。元亀元年(1570年)の姉川の戦い天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って手勢500騎、輿50丁、馬100頭、駄馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春武田元明京極高次らに近江の長浜佐和山安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に山崎の戦いで敗死した。

豊臣家臣時代

その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは滝川一益を攻め[2]、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは別働隊として羽柴秀長らと共に織田信雄を監視し、羽柴軍撤退の際、殿を務めた。同年に、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。[3]ルイス・フロイスの『耶蘇会年報』によると、このころ、高山右近らの影響で大坂においてキリスト教洗礼を受ける。天正13年(1585年)の紀州征伐第二次太田城の戦い)や富山の役、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などにも従軍する。この時、討死を覚悟して自分の肖像画を残している。ちなみに九州征伐では、前田利長と共に岩石城を一日で落とす活躍を見せた。又、天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓(本姓)を下賜された。[4]
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石[5](のちの検地・加増により92万石[6])の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷(うじさと)と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“”吉の名乗りの一字を下に置く「賦」という名が不遜であろうという気配りからであった。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた[7][8]
以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧[9]。同年12月、従三位参議に任じられた[10]
文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した[9]。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している[9]
文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40[10]
蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津にはやはり伊達政宗に対抗させる目的で上杉景勝が入った)。



利休七哲(りきゅうしちてつ)は、千利休の高弟7人を指す呼称。利休の曾孫にあたる表千家江岑宗左(逢源斎)の記した『江岑夏書』(こうしんげがき)の中で挙げられている。
その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり[1]織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある。また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏金森長近を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。


七哲

利休門三人衆

利休七哲に加えて利休門三人衆といい、利休門下の武将のなかで、特に優れていたといわれる、蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興の3人の武将がいる。 また、彼らは利休七哲にも加わっている。利休七哲と同じで、後世に呼称されたもの。




古田 重然(ふるた しげなり[3]、-しげてる[4])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名。一般的には茶人古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している[5]千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


武将・重然

天文12年(1543年)、美濃国本巣郡山口城主・古田重安の弟で古田重定(勘阿弥、還俗主膳重正と改名したという)の子として生まれ[6]、後に伯父重安の養子となったという。『古田家系図』[7]に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[8]。しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない[9]
古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた[10]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚[11]
天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[12]。 その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[13]と少ないながらも武将として活動している。
信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話[14]が残る。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐四国平定にも秀政と共に出陣している[15]。 同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した[16]。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州征伐[17]小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる[18]

茶人・織部とその友誼

天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、その地位を継承するかのように天下の茶人となった。慶長3年(1598年)には嫡男の重広に家督を譲り隠居した[19]
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
この時期の重然は茶の湯を通じて朝廷貴族寺社・経済界と様々なつながりを持ち、名実ともにまさしく天下の茶人として全国の大名に多大な影響を与える存在であり、二代将軍・徳川秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されている。

最期

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のおりに重然の茶頭である木村宗喜豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代板倉勝重に捕らえられた。重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた[20]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日7月6日)に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。同時に重広も切腹、宗喜も処刑されている。古田家は断絶。
茶道の師である千利休同様反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなかった。また、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々 なつながりを持ち、全国の大名にすら多大な影響力を与える存在にもなっており、このため古田氏は幕府からその影響力・存在を危険視されるようになったと考 えられている。
なお、次男・重尚(前田利常家臣)、三男・重広(池田光政家臣)、四男・重行(豊臣秀頼家臣)、五男・重久がいたとされるが、史料で確認出来ない。重然の妻の隠居所が興聖寺の塔頭にあったといい、そこには重然の墓の左右に墓石が並んでいる[21]




千 道安(せん の どうあん、天文15年(1546年) - 慶長12年2月17日1607年3月14日))は戦国時代から江戸時代初期の茶人。始め紹安。後に道安。号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人など。堺千家の主。

天文15年(1546年)、千宗易の長男として生まれる。母は宝心妙樹。千家の嫡男だが、利休と折り合いが悪く若い頃に家を出た。のちに利休と和解。茶の道を修め豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられるまでになった。
利休切腹後は金森長近に預けられ(異説あり)、蟄居、謹慎を命じられた。長近が茶人であったことから、親交を深めたとみられている。
文禄3年(1594年)に赦されてに戻り(時期には諸説ある)、千家の家督を継いだ(堺千家)。
慶長6年(1601年)、細川三斎に招かれ、茶頭となり、豊前水崎で三百石を拝領する。
慶長12年(1607年)、豊前の地にて死去(異説あり)。大宰府の崇福寺に葬られた。現在の墓所は堺市南宗寺


同い年と言うことから、義弟である千少庵との対比で語られることが多い。中には少庵を道安より優れていたように描く逸話もあるが、これは現存しているのが少庵系統の三千家周 辺のものである事実を考慮する必要がある。そうした資料の中でも道安についての賞賛が散見されるところから、当時際だった才能を発揮していたことが伺われ る。少庵は先天的に足に不自由があったが、これが三千家系統の資料では道安に置き換えるなどの事実関係の齟齬も確認されている。
  • 利休が二人に竹の蓋置を選ばせたところ、道安は節のついたゴツゴツとした蓋置を、少庵は節のない滑らかな蓋置を選んだというエピソードがあり、道安は磊落な性格、少庵は繊細な性格であったとされている(『江岑夏書』)。
  • 秀吉が利休に「大仏(方広寺)の内陣を囲いて茶の湯すべき者は誰ぞ」と尋ねたところ、「道安が仕るべき」と道安を推挙したとの逸話が残されている(『茶話指月集』)。
  • 道安の茶会に招かれた利休が亭主を待つ間「露地の飛び石の据え方がひとつだけ高い」と話したところ、勝手で聴いていた道安は中立ちの間に的確に直したという(前掲書)。
  • 千家再興の後、秀吉に呼ばれた道安が御前で茶を点てたところ、秀吉は「宗易が手前によく似たる」と褒めた(前掲書)。







金森 重近(かなもり しげちか、天正12年(1584年) - 明暦2年12月16日1657年1月30日))は、戦国武将金森可重飛騨高山藩主)の長男。弟に金森重頼金森重勝酒井重澄宗和(そうわ)ので名高い。宗和流茶道の祖。子に金森方氏山下市政室。
慶長19年(1614年大坂の陣で徳川方につく父可重らを批判したことで廃嫡され、母(遠藤慶隆娘)と供に京都に隠棲する。大徳寺でを学び、剃髪して「宗和」と号する。
祖父長近、父可重らと同じく茶の湯に秀でていたこともあり、公家との交友を深めながら、やがて茶人として活躍をはじめる。古田重然(織部)や小堀政一(遠州)の作風を取り入れながらも、その茶風はやわらかく、優美であり「姫宗和」と呼ばれ京の公家たちに愛され、江戸の徳川家光に招かれたこともある。(対する千宗旦への呼称は「乞食宗旦」であった)。その系譜は茶道宗和流として今日まで続いている。
陶工野々村仁清を見出したことでも知られ、また、大工・高橋喜左衛門と塗師・成田三右衛門らに命じて、飛騨春慶塗を生み出したともされている。
墓所は京都府京都市北区天寧寺門前町の天寧寺



桑山 貞晴(くわやま さだはる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将茶人である。桑山重晴の三男。号は洞雲。同名の甥桑山加賀守貞晴がおり、区別して桑山小傳次あるいは桑山左近大夫とも書かれる。片桐石州は貞晴の門下生にあたり、茶人としては桑山宗仙を名乗った。

生涯

はじめ豊臣秀長に仕え、大和国内に2,500石を与えられた。秀長死後は豊臣秀吉に仕えた。1592年、文禄・慶長の役には甥(兄桑山一重の子)桑山一晴と共に出陣。水軍を指揮した。
次いで徳川氏に仕え、1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に従って和歌山において父桑山重晴と共に戦功をあげた。1615年、大坂夏の陣でも同じく徳川方で、道明寺の戦い丹羽氏信らと共に薄田兼相の軍勢と交戦した。
また千道安から茶の湯について学んだ茶人でもあり、宗仙と名乗って晩年は千利休の茶風を後世に伝える役目を果たした。
寛永9年(1632年)7月7日に死去、享年73。



片桐 貞昌(かたぎり さだまさ)は、江戸時代前期の大名茶人大和小泉藩の第2代藩主。茶道石州流の祖として片桐石州の名で知られる。

生涯

慶長10年(1605年)、初代藩主・片桐貞隆の長男として摂津茨木で生まれる。賤ヶ岳の七本槍の一人である片桐且元の甥にあたる。寛永元年(1624年)12月28日に従五位下、石見守に叙任される。寛永4年(1627年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の貞晴に3,000石を分与したため、小泉藩は1万3,000石となった。
貞昌は寛永9年(1632年)から寛永20年(1643年)まで知恩院再建の普請奉行を務め、そのほかにも関東の郡奉行などを歴任し、また水害地の視察にしばしば出張するなど土木建築に功績を挙げた。寛永15年(1638年)には大徳寺山内に高林庵を建立している。
延宝元年(1673年)11月20日に死去した。享年69。跡を三男の貞房が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺高林庵。

茶人としての石州

最初、千利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙に茶道を学んだといわれている。30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明近江小室藩主・小堀政一(遠州)らともよく茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠として次第にその名が広がっていった。特に第4代将軍・徳川家綱のために『茶道軌範』を作り、なおかつ寛文5年(1665年)には家綱の茶道指南役となり、石州流を不動のものとした。
寛文3年(1663年)、父の菩提のために慈光院を 創立した。これは寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という、茶の湯 で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま300年を越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見ても貴重な場所と なっている。慈光院の庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室が国宝保存法により当時の国宝に指定された(1950年文化財保護法により重要文化財となる)。
ちなみに徳川光圀保科正之松浦鎮信らは、茶道における貞昌の門弟である。





鎮信流 (ちんしんりゅう)は、肥前平戸藩で伝えられた茶道の流派。4代藩主松浦鎮信片桐石州に学び、また様々な流儀を研究して打ち立てた。石州流鎮信派とも。現在宗家は藤沢市にある。



松浦鎮信平戸藩の4代藩主で、若年より茶道を好み、家臣に金森宗和から伝授を受けさせ、遠州流一尾流古市流有楽流なども研究していたが、壮年に至って片桐石州に師事して藤林宗源より皆伝を受けた。そこで石州流を基本としてそこに各流儀の長所を加えて一派を打ち立て、石州流での弟弟子にあたる村松伊織を茶堂として迎え、これに豊田の姓を与えて代々伝授させた。
大名家の常として当主自らが茶道を伝承することはなく、茶堂より伝授を受けるのであるが、特に8代藩主松浦誠信は17歳で皆伝を受けるほどの達人であった。12代藩主松浦詮の ときに維新を迎え、家元を豊田家から移して鎮信流を称し、東京で自ら茶道の指導を行うようになる。とくに女子学習院や日本女子大学などで茶道の教授にあ たった。また和敬会(十六羅漢会)のメンバーとして持ち回り茶会を催すなど、明治期の茶道復興に貢献した人物の一人に数えられる。



武家茶道(ぶけさどう)は、おもに江戸時代以降に武家社会の間で行われてきた茶道のこと。大名茶とも呼ばれる。多くの場合、各藩・各大名でそれぞれ公式の流儀が定められており、一つの領国内のみで行われていた流儀も多い。
江戸時代から家元制度をとっていた町人茶と違い、武家茶道においてはいわば各藩の殿様が家元に相当する立場であり、実務は茶道師範に任せていることが大半であるが、中には大名自ら深く茶道を嗜んでいる事例もある。
主な流儀に遠州流石州流三斎流有楽流織部流上田宗箇流鎮信流小笠原家茶道古流不昧流安藤家御家流などがある。将軍家茶道師範役だった片桐石州の石州流は、特に多くの分派を持ち、武家社会に浸透していた。
廃藩置県以降、武家社会の崩壊とともに消滅した流儀も多いといわれる。