岡田周三(おかだ しゅうぞう、1905~1983)は、マクロビオティック普及団体である正食協会の二代目会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一(正食協会初代会長)の熱心な門下生の一人として、大阪を拠点にマクロビオティック思想の啓発と研究、玄米食の推進、食生活を中心とした健康指導や、病気に苦しむ人たちの相談などの活動に打ち込んだ。
戦後、京都と大阪で桜沢を囲んでマクロビオティックの例会が開かれ、大阪で機関紙が発刊されるようになった。しかし、1953年に桜沢がマクロビオティック思想の根本である無双原理(PUと略されることもある。フランス語でPrincipe Unique)を海外に広めるべく、インドを皮切りとして5年間にわたる世界旅行に出発すると、活動が一時すたれた。
そこで、1957年に岡田周三が大阪府堺市の自宅を拠点として食養新生会を旗揚げした。大阪での活動は「PU運動」と呼ばれていたが、PUではなくわかりやすい「食養」を採用し、さらに以前「食養会」と称する団体があったことから、新しい時代にふさわしいものをと食養新生会と名づけられた。
1958年、食養新生会は月刊の機関紙「健康と平和」
を創刊する。同誌は世界旅行から帰国した桜沢から「関西での正食活動をもっと活発にしてほしい」という要望を受け、初代編集長となって創刊に踏み切ったも
のであり、紙名は桜沢の発案。表紙の題字も、桜沢自身が筆を執った。創刊日は桜沢の誕生日、10月18日である。(なじみのそば屋に集まった食養新生会の
役員たちに配られ、喜びの中で新しい会誌の船出を祝った。)
月刊誌「健康と平和」はそれから、「正食」、「コンパ21」、ふたたび「正食」と誌名を変更し、2001年6月号の通巻501号より「むすび」となり、現
在も発行されている。
1969年、食養新生会は「世界正食協会」に改称する。
1983年、世界正食協会は現在の「正食協会」に改称する。
2015年1月28日水曜日
大森 英櫻
大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2005年(平成17年))は、マクロビオティック指導者。静岡県熱海市生まれ。普及団体である宇宙法則研究会の初代会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一の門下生のひとり。桜沢の指導哲学である無双原理を発展させ、動物性食品を一切摂取しない完全穀菜食を提唱した。夫人はマクロビオティック料理研究家の大森一慧。
晩年は日本CI協会とは一定の距離を置く形で、支持者らとともにマクロビオティックの普及団体である宇宙法則研究会を結成した。
概要
第二次世界大戦後、病弱な体で悩んでいた大森英桜は桜沢のマクロビオティックの著書と出会い、体質を改善した。 日本MI(日本CI協会の前身)で学んだ後、無双原理の正しさを自ら調べるべく、多くの病人と交流し自らも実践するなかで、桜沢如一の考えを修正し、小魚すら口にしない完全穀菜食が理想的な食事法であるという考えに至った。大森の完全穀菜食は桜沢自身からは認められたものの、日本MI(日本CI協会の前身)幹部のほとんどは否定的であった。[1]晩年は日本CI協会とは一定の距離を置く形で、支持者らとともにマクロビオティックの普及団体である宇宙法則研究会を結成した。
久司 道夫
久司 道夫(くし みちお、1926年 - )は、アメリカ合衆国のボストンを拠点に自然食のマクロビオティックの研究、発展、普及に努めている。クシインスティチュートインターナショナル代表、久司財団会長、イーストウエスト財団会長、社団法人日本緑十字社社長。和歌山県新宮市出身。
食養研究家・思想家の桜沢如一に師事したのち1949年11月にアメリカ合衆国へ渡り、コロンビア大学大学院政治学部に入学。アメリカ国内を起点としてヨーロッパ、日本などでも普及活動を行う。
1949年ごろから、道夫は食事をマクロビオティックの方向へ改めていく[1]。
1951年、アレクシス・カレルの『人間-この未知なるもの』を読み、人類の問題は食物と環境から起こることを再確認し、マクロビオティックの考え方に完全に呑みこまれたと述べている[2]。
1960年代に、高島屋がアメリカに進出したが、道夫はレナウン創立者のすすめで副社長となって開店を手伝った[3]。
1966年、ボストンに自然食品店エレホンを開店させるにあたって、訳語として natural food erewhon と看板に掲げ、そして natural foods という単語が世界中に広まっていった[4]。自然食品店エレホンでは、有機農業を支援しながら有機食品を販売し、豆腐や味噌をはじめとしたあらゆる日本の伝統食品も販売していった[5]。
1969年、自然食品店エレホンの支店をロサンゼルスに開く[6]。
1976年、ジョン・レノンが道夫に会いに来る[7]。(ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1980年のPLAYBOYのインタビューで、食事はほとんどマクロビオティックだと応え[8]、マクロビオティックの料理番組に出演したこともあった[9]。)
1988年、世界保健機関の大会で「マクロビオティックによるエイズ治療」という講演を行った[10]。
コンビニエンスストアのローソンの幹部がローソンを変えようとしたとき、幹部に健康指導をしたことがきっかけとなってローソンを変えるための指導をすることになり、これがナチュラルローソンにつながっていった[11]
1994年 「世界の平和と人類の健康に貢献した」として、国連著作家協会優秀賞を受賞 [12]
1999年アメリカで活動が認められ、米国国立歴史博物館「スミソニアン」に、久司道夫のマクロビオティックの代表的な出版物や資料がクシファミリーコレクションとして永久保存され、展示される [13]。
1999年 米国国家下院にて、久司道夫の業績を公認する決議が行われる 。[14]。
長年マクロビオティックを実践していた夫人は癌によって死亡したが、がんを発見したとき、当初は余命3か月と診断されたが久司道夫のアドバイスにのっとった食事をはじめ、そのため[要出典]8年を生き延びた。
久司道夫本人も2004年に結腸癌を発症し手術を受けている[15] 。しかし、久司道夫本人は高齢になっても世界各地を飛行機で移動し、一年の大半をホテルで暮らし、外食がほとんどで、マクロビオティックを実践できていない。留守を守っていた夫人も、日夜を問わず訪れる重病患者の相手に追われるなど大変多忙な暮らしであったという[要出典]。
2007年 米国国会下院にて、久司道夫の生誕80年を記念して、業績の顕彰決議が行われる。[16]
概要
東京大学法学部政治学科卒業。同大学院国際政治学修了。食養研究家・思想家の桜沢如一に師事したのち1949年11月にアメリカ合衆国へ渡り、コロンビア大学大学院政治学部に入学。アメリカ国内を起点としてヨーロッパ、日本などでも普及活動を行う。
1949年ごろから、道夫は食事をマクロビオティックの方向へ改めていく[1]。
1951年、アレクシス・カレルの『人間-この未知なるもの』を読み、人類の問題は食物と環境から起こることを再確認し、マクロビオティックの考え方に完全に呑みこまれたと述べている[2]。
1960年代に、高島屋がアメリカに進出したが、道夫はレナウン創立者のすすめで副社長となって開店を手伝った[3]。
1966年、ボストンに自然食品店エレホンを開店させるにあたって、訳語として natural food erewhon と看板に掲げ、そして natural foods という単語が世界中に広まっていった[4]。自然食品店エレホンでは、有機農業を支援しながら有機食品を販売し、豆腐や味噌をはじめとしたあらゆる日本の伝統食品も販売していった[5]。
1969年、自然食品店エレホンの支店をロサンゼルスに開く[6]。
1976年、ジョン・レノンが道夫に会いに来る[7]。(ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1980年のPLAYBOYのインタビューで、食事はほとんどマクロビオティックだと応え[8]、マクロビオティックの料理番組に出演したこともあった[9]。)
1988年、世界保健機関の大会で「マクロビオティックによるエイズ治療」という講演を行った[10]。
コンビニエンスストアのローソンの幹部がローソンを変えようとしたとき、幹部に健康指導をしたことがきっかけとなってローソンを変えるための指導をすることになり、これがナチュラルローソンにつながっていった[11]
1994年 「世界の平和と人類の健康に貢献した」として、国連著作家協会優秀賞を受賞 [12]
1999年アメリカで活動が認められ、米国国立歴史博物館「スミソニアン」に、久司道夫のマクロビオティックの代表的な出版物や資料がクシファミリーコレクションとして永久保存され、展示される [13]。
1999年 米国国家下院にて、久司道夫の業績を公認する決議が行われる 。[14]。
長年マクロビオティックを実践していた夫人は癌によって死亡したが、がんを発見したとき、当初は余命3か月と診断されたが久司道夫のアドバイスにのっとった食事をはじめ、そのため[要出典]8年を生き延びた。
久司道夫本人も2004年に結腸癌を発症し手術を受けている[15] 。しかし、久司道夫本人は高齢になっても世界各地を飛行機で移動し、一年の大半をホテルで暮らし、外食がほとんどで、マクロビオティックを実践できていない。留守を守っていた夫人も、日夜を問わず訪れる重病患者の相手に追われるなど大変多忙な暮らしであったという[要出典]。
2007年 米国国会下院にて、久司道夫の生誕80年を記念して、業績の顕彰決議が行われる。[16]
奥山 治
奥山 治(おくやま おさむ、1918年(大正7年)1月31日 - 2000年(平成12年)3月18日)は東京都・青ヶ島村の村長を五期17年3か月間務めた人物。生涯において玄米自然食(マクロビオティック)の普及に務めた。東洋哲学の思想家。
奥山治は、島の名主と なった佐々木次郎太夫の末裔である。故に名前も「治」である。奥山治の時代も、次郎太夫同様に僻地・離島の総引揚げが国策として推進された時代であった。 村議会議員時代を含め通算27年に亘り、島の総引き揚げに抵抗し、島の発展に尽くしたことから「現代のモーゼ」と称えられている。
桜沢如一の門下となり、玄米食運動(マクロビオティック)や世界政府運動の活動に熱中する。兄弟弟子に久司道夫、田中波留子(フローラ)らがいる。戦況が激しくなったため、桜沢如一の命により門下生一同は戦争が終わるまでそれぞれの故郷へ帰ることとなった。
奥山治は帰郷後、八丈島、青ヶ島の国民学校の教員を務めたが、やがて1945年(昭和20年)終戦を迎える。英語が多少ともできた由縁もあり武装解除に訪れた合衆国将軍より、青ヶ島の名主の末裔として島の政治、経済、文化の全権を委任され、事実上島の全権を掌握する指導者となった。
以来、奥山治は、地方自治法(公職選挙法)除外地域時代、つまり1947年(昭和22年)以前においても実態は統治者で村長であり、27年に亘る政治活動の中で、次々に村民の悲願を実現してきた。
温厚誠実にして品行方正、清廉潔白にして自由闊達な性格を身上とし、卓抜なる政治的識見と指導力は高く評価され、広く深く村民の信望を得た。
奥山治は、自らの白書に従って東奔西走し粛々と公約を実現させてきた。
農道・村道・都道の整備、発電設備、全家庭灯電、三宝港開港(突堤桟橋建設)、船便航路、連絡船建造、三宝港ウインチ荷揚げ設備、産業振興、診療 所、保育園、小学校、中学校、体育館、図書館、村民住宅、集会所、老人福祉館、村役場庁舎、山斜面雨水集水式簡易水道(全家庭水道化)、大千代港開港、ダ イヤル電話開通、年金受給等、そのマニフェスト達成実績は枚挙に暇がない。
奥山治は、日本の僻地・離島が自らの故郷を捨てさせられた当時、孤軍奮闘し青ヶ島の生活と文化と暮らしを守りきった。1979年(昭和54年)後進に託し奥山治は村長を勇退している。
当時の青ヶ島には完備された漁港がなく、豊富な海産資源も他県や他島により乱獲されていた。陸上産業・農業資源の乏しい青ヶ島は、このままでは多額 の公費を投じた公共施設も、空しく自滅してゆくか、または島を挙げて島外転出を選ばなければならない断崖絶壁の岐路に立たされていた。
同じ運命にあった東京都・八丈島・八丈町の八丈小島は1969年(昭和44年)人の住まない無人島と化している。しかし、遥か先祖伝来あらゆる苦難・困難を克服してきた島民達が自滅や島外転出を求める理由は何一つなく、奥山は青ヶ島の恒久自立の道はただひとつ、抜本開発か、若しくは日本国から独立し治外法権を取るかの二者択一しかないと考えた。
奥山治は、地下足袋姿で度々上京し、青ヶ島の現状を東京都庁前で断食をしながら陳情した。
来歴
奥山治の出生地青ヶ島は、1785年(天明5年)天明の大噴火で全島民が避難し無人島になった。絶海の孤島の中で、その後五十年もの歳月をかけ、1835年(天保6年)避難先の八丈島から独力還住(全島民帰還)を果たす祖先達を指導したのが佐々木次郎太夫である。柳田國男は佐々木次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と称えている。奥山治は、島の名主と なった佐々木次郎太夫の末裔である。故に名前も「治」である。奥山治の時代も、次郎太夫同様に僻地・離島の総引揚げが国策として推進された時代であった。 村議会議員時代を含め通算27年に亘り、島の総引き揚げに抵抗し、島の発展に尽くしたことから「現代のモーゼ」と称えられている。
人物評
三人兄弟の末弟として生まれる。1938年(昭和13年)3月、旧制・東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業。桜沢如一の門下となり、玄米食運動(マクロビオティック)や世界政府運動の活動に熱中する。兄弟弟子に久司道夫、田中波留子(フローラ)らがいる。戦況が激しくなったため、桜沢如一の命により門下生一同は戦争が終わるまでそれぞれの故郷へ帰ることとなった。
奥山治は帰郷後、八丈島、青ヶ島の国民学校の教員を務めたが、やがて1945年(昭和20年)終戦を迎える。英語が多少ともできた由縁もあり武装解除に訪れた合衆国将軍より、青ヶ島の名主の末裔として島の政治、経済、文化の全権を委任され、事実上島の全権を掌握する指導者となった。
以来、奥山治は、地方自治法(公職選挙法)除外地域時代、つまり1947年(昭和22年)以前においても実態は統治者で村長であり、27年に亘る政治活動の中で、次々に村民の悲願を実現してきた。
温厚誠実にして品行方正、清廉潔白にして自由闊達な性格を身上とし、卓抜なる政治的識見と指導力は高く評価され、広く深く村民の信望を得た。
村長事績
奥山治は、村長就任直後に青ヶ島の抜本的基盤(生活・産業)の確立を旗印に膨大な「青ヶ島開発白書」を公表し、青ヶ島の開発振興についての所信を明らかにした。1965年(昭和40年)まで電気がなくランプで、1978年(昭和53年)まで水道がなく雨水タンクでという、遥かに立ち遅れた村民の生活状況であった。奥山治は、自らの白書に従って東奔西走し粛々と公約を実現させてきた。
農道・村道・都道の整備、発電設備、全家庭灯電、三宝港開港(突堤桟橋建設)、船便航路、連絡船建造、三宝港ウインチ荷揚げ設備、産業振興、診療 所、保育園、小学校、中学校、体育館、図書館、村民住宅、集会所、老人福祉館、村役場庁舎、山斜面雨水集水式簡易水道(全家庭水道化)、大千代港開港、ダ イヤル電話開通、年金受給等、そのマニフェスト達成実績は枚挙に暇がない。
奥山治は、日本の僻地・離島が自らの故郷を捨てさせられた当時、孤軍奮闘し青ヶ島の生活と文化と暮らしを守りきった。1979年(昭和54年)後進に託し奥山治は村長を勇退している。
思想
奥山治は、離島である青ヶ島村開発の最終目標は、恒久自立であり、且つ格差のない村民生活基盤の抜本的確立でなければならないとして、27歳にして本格的に政治家としての活動に入った。当時の青ヶ島には完備された漁港がなく、豊富な海産資源も他県や他島により乱獲されていた。陸上産業・農業資源の乏しい青ヶ島は、このままでは多額 の公費を投じた公共施設も、空しく自滅してゆくか、または島を挙げて島外転出を選ばなければならない断崖絶壁の岐路に立たされていた。
同じ運命にあった東京都・八丈島・八丈町の八丈小島は1969年(昭和44年)人の住まない無人島と化している。しかし、遥か先祖伝来あらゆる苦難・困難を克服してきた島民達が自滅や島外転出を求める理由は何一つなく、奥山は青ヶ島の恒久自立の道はただひとつ、抜本開発か、若しくは日本国から独立し治外法権を取るかの二者択一しかないと考えた。
奥山治は、地下足袋姿で度々上京し、青ヶ島の現状を東京都庁前で断食をしながら陳情した。
出典・参考文献
- 長男:JASDAQ上場 夢みつけ隊株式会社 代表取締役、フリージアグループ会長 佐々木ベジ
- 長女:佐々木コル(現在建内コル。看護大学、中国遼寧省中医大を卒業、東洋医学治療院経営)
- 次男:フリージアハウス代表取締役社長 奥山治郎
- 三男:東証二部上場 フリージア・マクロス代表取締役社長 奥山一寸法師
- 四男:もみの気ハウス代表取締役社長 奥山順二
石塚 左玄
石塚 左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日(1851年3月6日) - 明治42年(1909年)10月17日)は、明治時代の日本の軍医・医師・薬剤師。玄米・食養の元祖で、食養会をつくり普及活動を行った。
福井藩(現福井県)出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」[1][2]と食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。
栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという[3]。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった[3]。天皇家の献立は食養学に基づいている。
- 1851年(嘉永4年)2月4日(旧暦)、福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。元禄赤穂事件で有名な大石良雄の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病と重症の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。12歳で医者としての評価があったという。
- 1868年(明治元年) 18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んでいる。
- 1869年(明治2年) 福井藩助句読師となる。
- 1870年(明治3年) 福井藩病院調合方になる。
- 1871年(明治4年) 同郷の橋本綱常を頼って上京。
- 1872年(明治5年) 東京大学南校科学局で御雇になる。
- 1873年(明治6年) その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医薬局の助手を務める。
- 1874年(明治7年) 陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
- 1876年(明治9年) 陸軍の薬剤監補に任命される。
- 1877年(明治10年) 陸軍の薬剤監副に任命される。
- 1881年(明治14年) 陸軍の薬剤監に任ぜられる。
- 1892年(明治25年)頃には食養が普及し、「双塩会」という食養の実践団体があった。
- 1894年(明治27年) 薬学会誌に、"人類は穀食動物なり"、"飲食物化学塩類論"、"飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり"を発表する。
- 1895年(明治28年) 薬学会誌に、"食物中の夫婦アルカリ性質論"、"入浴は亦人体の脱塩法なり"を発表する。
- 1896年(明治29年) 『化学的食養長寿論』を出版した。
- 1898年(明治31年) 大衆向けの『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』を出版した。 この頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国から患者が殺到するようになっていた。
- 1907年(明治40年) 「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政治家や財閥なども多くいた。
- 1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。
石塚左玄の食養学
- 食本主義[4] 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄にするには食物を清浄にすることである[5]。
- 人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は穀食(粒食)動物なり」[6]とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るような自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。または穀食主義[4]。人間の歯は、穀物を噛む臼歯20本、菜類を噛みきる門歯8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であるという天性をつくす[7]。
- 身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をとる[8]。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。
- 陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバランスが崩れすぎれば病気になるとした[9]。ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウムの多いものは野菜・果物と植物性食品となる[10]。しかし、塩漬けした漬け物や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い[11]。精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によって陰陽のバランスくずれ、病気になる[12]。
- 一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。「白い米は粕である」と玄米を主食としてすすめた[13] 。
食育
智と才は食養に関係する[14]。 智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少ない食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした[15]。軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランスに注目する[16]。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する[17]。 幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍耐力や根気を養う。また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短くなってしま う。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つように食養する。
著作
- 石塚左玄 『検尿必携』 長瀬時衡、島村利助、東京、1876年6月。
- 石塚左玄 『鑑薬精義』 陸軍文庫、東京、1876年12月。
- 石塚左玄 『飲水要論』 石川良信、静思堂、東京、1880年8月。
- 石塚左玄 『飲水要論』 石川良信、静思堂、東京、1884年8月、増訂2版。
- 石塚左玄 『飲食品化学的塩類論』 馬淵延三郎、東京、1894年。
- 石塚左玄 『[40058708 化学的食養長寿論]』 博文館、東京、1896年6月。
- 石塚左玄 『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』 博文館、東京、1898年1月。
- 石塚左玄 『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』 三省堂、東京、1909年12月、増訂7版。
- 石塚左玄「食物養生法」『近代日本養生論・衛生論集成』 第12巻、大空社、1992年。
- 石塚左玄 『礼義廉耻の食養論』 石塚左玄、東京、1904年1月。
- 石塚左玄 『食養道歌俗解』上巻、莵道春千代、食養新聞社〈食養叢書;第1編〉、東京、1906年7月。
- 石塚左玄 「食養談」『実験心身健康談 』 有楽社、1907年11月。
- 石塚左玄 『食医石塚左玄の食べもの健康法-自然食養の原典「食物養生法」現代語訳』 橋本政憲訳、農山漁村文化協会〈健康双書ワイド版.食と健康の古典;6〉、2004年3月。ISBN 978-4540033360。
参考文献
- 桜沢如一 『石塚左玄-伝記・石塚左玄』 食養會、1928年6月。
- 桜沢如一 『石塚左玄-伝記・石塚左玄』 日本CI、1974年6月、復刻版。
- 桜沢如一 『石塚左玄-伝記・石塚左玄』 大空社〈伝記叢書;158〉、1994年11月、複製版。ISBN 978-4872364576。
- 沼田勇 『幕末名医の食養学-いま甦る「石塚左玄」の粗食健康法』 光文社〈光文社文庫.美と健康シリーズ〉、1993年1月。ISBN 978-4334716462。
- 沼田勇 『日本人の正しい食事-現代に生きる石塚左玄の食養・食育論』 農山漁村文化協会〈健康双書〉、2005年3月。ISBN 978-4540042959。
- 横田哲治 『天皇家の健康食』 新潮社、2001年12月。ISBN 978-4104502011。
- 持田鋼一郎 『世界が認めた和食の知恵-マクロビオティック物語』 新潮社〈新潮新書〉、2005年2月。ISBN 978-4106101052。
- 田中聡 『怪物科学者の時代』 晶文社、1998年3月。ISBN 978-4794963468。
- 『癒しを生きた人々-近代知のオルタナティブ』 田邉信太郎,島薗進,弓山達也、専修大学出版局、1999年10月。ISBN 978-4881251096。
桜沢 如一
桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、生来はにょいち。1893年10月18日 - 1966年4月24日)は、思想家・食文化研究家。
マクロビオティックの提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。
経歴
和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士の家系に生まれる。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1]石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。1924年には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設する。その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウム・カリウムのバランス論」を易経の陰陽に当てはめた無双原理を提唱。1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリのVrin社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。1937年に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。 1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観的な真偽不明)。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫、大森英桜、岡田周三、菊池富美雄らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞。
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