2014年10月28日火曜日


このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。 
 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。 



世阿弥 




時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。

世阿弥


2014年10月27日月曜日


知心流(前備)相伝家
知心正統派刀流(知心正流)について


    知心流の刀法(刀法・剣術)    知心正統派刀流または略して知心正流によって伝承。現在13代目。
       〃 骨法(鎧組・空手)    正統伝武道聖覚院流八の手
       〃 居合(抜手剣・裏知心) 木崎源左衛門尉為利(寛永以後・会津~白河住)


      古来より知心流の嫡流家および相伝家には、武道襲名による松平姓と葵紋が与えられ
      門下生の育成が許される。知心流には厳しい掟もあり、降格や破門者も多い。 

[出典]
http://www2.odn.ne.jp/fudou-chishinryu/about_chishinryu/maezonae_soudennke.html


日本古武道協会(にほんこぶどうきょうかい)は、日本の伝統武術である古武道を統括する団体の一つである。
古武道の保存と振興を目的として、財団法人日本武道館が中心となり、古武道各流派の代表者、有識者の協議を経て設立された。日本古武道振興会と並んで、最も権威ある古武道団体である。
日本古武道演武大会、日本古武道術技向上演武大会、海外での古武道演武会の開催(財団法人日本武道館との共催)、古武道功労者の表彰、古武道のの記録映像の製作などを事業としている。

柔術[編集]

剣術[編集]

居合術・抜刀術[編集]

槍術[編集]

杖術・棒術[編集]

薙刀術[編集]

空手・琉球古武術[編集]

体術[編集]

砲術[編集]

その他武術[編集]

過去に加盟していた流派[編集]



古武道とは?
では、その役に立つ古武道とは一体何だ?
そのまえに、古武道の「古」を取り除き、武道とはそもそも何なのか、の定義が必要だ。
基本的に武道は、自分の生命を呈して守らなければならないものを守る、その為に強くなければいけない、という必然を伴ったものである。だからこその技術であり、それを研鑽した突き当たりに、この本でいう達人伊藤一刀斎等がいるのだ。
そして、その戦いにおいては三つの基本的原則がある。1-敵は一人か複数かは決まっていない、2-敵は何時攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という三つだ。
この原則から工夫を重ね編み出された戦う術、それを任意に取り出し、名前を付けたものが「技」だ。その取り出し方の違いが流派の違いであり、それぞれの宗家の世界観・身体観の違いである。
またその技には流派を問わず、二つの重要な要素が含まれている。その一つは、相互に離れた場所から相手の攻撃の為の意志の変化、意識の変化に気づき行動を起こせる、という要素。その一つは、相互に武器あるいは身体が接着した状態での、相手の攻撃の為の意志の変化や意識の変化に対する気づきと行動である。
目的は二つとも同じなのだが、相互が接着していない、と相互は接着している、という違いであり、共に相手の攻撃の為の意識の変化・意志の起こりを察知する為のものである。
もちろん、この二つの要素は、三つの基本原則をクリアする為のものだ。
これらの三つの原則二つの要素から編み出されたものが、現代において役に立つのだ。逆にいえば、この原則や要素から編み出されていないものは役に立たない、ということになる。
もう少し違う角度からいえば、これらの原則や要素が含まれていないのが、現代の格闘競技、スポーツ競技である。
例えば、K-1のリング上で、突然刃物は出さない、剣道の試合で相手のチームの選手が乱入し、身体に直接危害を加えることはしない、空手の試合で金的だけを狙ったり、目を潰すことはしないし、誰も二人の試合に乱入しない。
たとえ試合で負けても、仇討ちということで闇討ちや食べ物に毒を混入させたりしない。
というルールの上で成り立っているのがスポーツ競技で、これらのルールがない上に、生命そのものを賭けているのが武道だという違いである。
つまり、武道の三原則がないのがスポーツ競技だ。しかし、誤解しないように、ここで言っているのは違いであって、どちらが良いか悪いかを決めているのではない、ということを。
  戦いの三原則から達人が生まれた
これらの原則や要素が生まれた時代、それはいわずと知れた戦国時代だ。その戦国時代にあった武技・武芸・武術を「古武道」と呼ぶのである。
しかし、これらの原則や要素を満たしたのは、宮本武蔵や伊藤一刀斎という武道史の中のごく僅かな達人以外にはいなかったのだ。
1- 敵は一人か複数かは決まってない、2-敵はどう攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という三つは残念ながら、単純な運動論、身体操作ではクリアすることは出来ない。
つまり、体力にものをいわせ、体格にものをいわせ、生まれ持った身体能力だけではクリアできなかった、ということだ。
敵は目の前にいる人間だけだと思っていたら、後ろからも横からも来た。まだ相手は攻めてこない、と思っていたら、後ろからいきなり攻めてきた。敵が武器として持っているのは刀だけだと思っていたら、懐から手裏剣を出して投げてきた。
後ろからは、弓で狙っていた。横から槍で突っ込んできた。
という状況が、三つの原則であり、これをクリアするのが「技」である。ただし達人の、という但し書きが付く。普通に考えてみて、映画や芝居ではないのだから、この状況は単純に運動能力が高いということでクリアできるほど甘くはない事は想像できるだろう。
むろん、敵味方共に生命が賭かっているから、現代の剣道競技のように、ポイントにならない箇所や打突が浅い時「まだまだ」と声が掛かり終わるものではない。ポイントにならない箇所であっても、打突が浅かろうが手が無くなっていたり足を落としたり、肩の骨が斬られていたりするのだ。
と考えると、武士であれば誰でも、また、剣の免許皆伝であれば誰でもこれをクリアしたとは考えられないだろう。また、単純運動論や身体操作でクリアできないことも想像できるだろう。
だから、要素として、相互が接着している、相互は接着していない、に関わらず相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知する為の能力が必要なのだ。つまり、敵の攻撃の意志の起こりを攻撃という具体的動作が起こる前に察知し、それに対応する能力が必要だったということである。
では、これら武道の原則や要素は現代の何に役に立つのか?
武道とは、武道の三原則の通り、一人あるいは複数の敵を相手に戦い勝ちを収める為に切磋琢磨し、工夫し、という過程を指す。一人あるいは複数の敵、つまり、人との駆け引きでありその駆け引きの究極の形である。

相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知する為の能力は、相手に対する気遣い・気配りであり、それらは人間関係を円滑に行う為の、また、仕事を円滑に行う為の目に見えない一番大切な能力である。
というところから言えば、人間関係術として現代で大いに役に立つのだ。もちろん、人間関係のみならずここに上げた要素は、現代のスポーツでも役立たせる事は出来る。
また、ものの考え方としても役に立たせることが出来る、と断言しよう。
  武道的身体とは
武道というものは分かった。ではその武道家の身体、武道家としての身体は、現代のスポーツ選手とどう違うのか。また、武道家は一般では見かけることの出来ない特殊な動きを要求されているのか。という疑問を持つだろう。
決定的に違うのは、武道では一瞬のミスが自分自身の生命を落とす、という条件が常にあることだ。街を歩く、茶店で座る、座敷で座る、風呂に入る、食事をする等、日常全ての動き・行動が直接自分の生命と関わっている、という自覚を持っているのが武道家である。
という日常から武芸の稽古を積んでいくのだから、当然スポーツ選手の動きと違うだろう事は想像できるだろう。
でも。武道家の身体は、といえば別段普通の人と同じだろう。しかし、武道的身体と言えば、これはまるで違うといえる。
それは、ごく一般的に武芸十八般と呼ぶくらい様々な武器術を体得していたからだ。それを想像しやすく敢えて現代のスポーツに当てはめるとすれば、十種競技の選手の身体能力だろう。
陸上競技の単独種目しかやっていない選手と、十種競技の選手を比較すれば様々な違いがあるのと同じである。
武芸十八般。剣術・居合い術・短刀術・槍術・薙刀術・手裏剣術・鎖がま術・杖術・棒術・弓術・馬術・柔術・砲術・十手術・捕縛術・三つ道具・忍術・水泳術だ。これには諸説あるが、大方はこういったものである。
これらの武術を体得した身体は、これら十八の種類を媒介として精密な動きが形成されていくし、力をふんだんに出せる身体になった。何よりも身体感性が向上したはずだ。
それは、数学・国語・理科・音楽・英語他を獲得することで、頭を柔らかく使えるようになった、それらを総合して一つのことを考える力が深くなっていった、という結果と同じ様なことだと考えて良い。
決して、「人」は一つのことで一つの能力を伸ばす、という単純機械的能力しか持ち合わせていないのではないし、一つのことで一つの能力が開花するのでもないのだ。
この辺りのことを、経験的に知っていたのが当時の武道家の一部におり、その一部の人が達人だったのである。
もちろん、こういった武芸十八般を体得していなければ、敵と対応できないという必然があったからなのだが(もちろん、敵を知り己を知れば百戦危うからず、の意味も含まれている)。

[出典]


http://www.hino-budo.com/hon/shinkan-nyumon.html

流派に格のあることは、一般的に知られているだろうか。
剣術、鎗術、炮術、和、馬術、弓、軍学など、武藝はおよそ武家の世界に存在するものであり、必然的にそれら流派には格が存在する。
下表は、笠間藩の分限帳に見る各流師役と世話役の分布である。『茨城県史料 近世政治編Ⅱ』の「弘化3年(1846)3~5月名順帳」をもとに作成した。
家老~給人 279人
中小姓~徒士並 205人
下目付格~次坊主雇 234人

(中略)

この表の目的は、どの身分に師役・世話役が居るのか、これにより流派の格を明らかにする事だが、これは”師役”と”世話役”に限る。
つまり藩命によらず藩士を指南した”師範”たちは公式の役ではないので、ここには記されていない。
たとえば剣術、表を見ると”示現流”と”一刀流”のみであり、「中小姓」以下の身分には師役がいない。実は藩命によらず”知心流”を指南した田中助次則儀が居た。



[出典]
http://blog.bujutsu.jp/?p=380

2014年10月25日土曜日


中山安兵衛が高田の馬場へ伯父の決闘の助勢に駆けつける途中、すれちがった旗本丹下典膳は安兵衛の襷の結び目が解けかけているのに気づいた。かけつけたが、安兵衛の決闘の相手が同門知心流であることを知ると、典膳はその場を離れた。堀部弥兵衛親娘の助けを得た安兵衛は仇を倒した。一方、同門を見棄てた典膳は堀内一刀流の安兵衛へ決闘を迫られたが、拒絶した典膳を師匠の知心斎は破門した。安兵衛も師匠堀内源太左衛門の心を察して道場から遠のいた。源太左衛門の紹介で上杉家江戸家老千坂兵部の名代長尾竜之進が安兵衛に仕官の口を持って来た。安兵衛はその妹千春に心をひかれた。谷中へ墓参の途中、野犬に襲われた千春は典膳に救われる。その際犬を殺めた典膳だが安兵衛の機転で救われる。生類憐れみの令が発布され、これが役人に知られたら死罪となる世であった。その日の夕方知心流の門下が安兵衛を襲うが、典膳が助太刀をしこれを退ける。千春が典膳と恋仲であり祝言も近いことを知った安兵衛は上杉家への仕官を断り、堀部弥兵衛の娘お幸の婿になって播州浅野家に仕える運命になった。典膳が公用で旅立った後の一夜、典膳に恨みをもつ知心流の門弟五人が丹下邸に乱入し、思うさま千春を凌辱して引揚げた。間もなく千春が安兵衛と密通しているという噂が伝えられた。旅先より戻った典膳は事の真相を掴み、親戚一同を集めて妻の無罪を訴えた。浪人となって五人組に復讐する決意をした典膳は、長尾家を訪れ千春を離別する旨を伝えた。怒った竜之進は抜討に典膳の片腕を斬り落した。しかしこれは典膳の意図するところだった。同じ日、安兵衛の主人浅野内匠頭は上杉家当主の実父吉良上野介を、江戸城松の廊下で刃傷に及んだが、その日を限りに典膳は消息を絶った。--一年たった。同志とともに吉良襲撃を志して辛苦する浪人安兵衛は、或る日、吉良の茶の相手をつとめる女を尾行して、それが千春であることを知って驚いた。典膳と別れた千春は千坂兵部の世話で自活していた。典膳も兵部の好意で米沢で療養していたが、兵部の手引きで吉良家に迎えられることになった。二人が江戸に戻ると同時に兵部の死が伝えられた。知心流五人組を斬った後、典膳は吉良の附人となり、赤穂浪士と戦う決意をした。一方安兵衛らの計画も進み、吉良が催す茶会の日取りを確かめるだけになった。この頃、典膳が江戸にいることを知った五人組のうち三人が典膳を襲った。二人を撲殺するがもう一人に拳銃で撃たれた典膳は来合せた千春に救われ、七面山のかくれ家に運ばれる。五人組の残り三人は吉良邸から加勢を得て七面山に向った。一行は同門典膳の知心流の妙技に倒れたが、千春も一行の放つ銃弾に倒れた。折しも、千春を尋ねて安兵衛が七面山にたどり着いた。斬りまくる安兵衛に千春は吉良家の茶会は明十四日夜と告げると、典膳と相寄って共に果てた