2014年11月11日火曜日


義鑑流(ぎかんりゅう)とは、瓜生義鑑坊を開祖とする日本の徒手武術の流派。
瓜生義鑑坊は永禄年間の人で、戸田一心斎より玉虎流を学んだとも、姚玉虎より中国武術を学んだとも伝えられる。このような伝承ではあるが、大正時代に義鑑流骨法術第12代宗家を称した高松寿嗣以外にこの流派は確認できないため、この伝承の正否は不詳である。
高松寿嗣は高木流を中極意まで修行しており(免許皆伝ではない)、佐藤金兵衛に高木楊心流柔術(併伝されている九鬼神流棒術を含む)と義鑑流骨法術を教えた。


骨法 (格闘技)

虎倒流から転送)
骨法(こっぽう)とは、当身技を主体とする徒手武術のこととされる。ただし、隠し武器術である「骨法」(「強法」とも呼ばれる)や柔術の一部ではない、「骨法」という名称の独立した徒手格闘術が、日本武術の中に存在していたと主張するのは堀辺正史の系統のみである。

大きく2つの伝承に分類される。

中国起源説1

堀辺正史の系統以外の骨法の流派(玉虎流虎倒流古代骨法体術源流天心流など)は、中国武術が起源であるとしており、骨法が柔術等の日本の伝統徒手武術の異称のひとつであることも否定していない。 日本固有説を唱える堀辺正史(後述)は、著書『喧嘩芸骨法』の中で、「骨法が鑑真から学んだ中国拳法であるという説は、藤原仲麻呂によってでっち上げられた」としている。また、堀辺は著書で堀辺家には藤原仲麻呂と志賀清林を同一人物と伝える口伝があったと記している(ただし、この口伝については、堀辺自身が著書で「この二人が同一人物であったとは考えられない」と記している)。

中国起源説2

中国の姚玉虎から始まり、張武勝が日本に伝えた。[1]

日本固有説

これは現時点では堀辺正史の系統のみの主張である。堀辺によると、骨法は柔術等の日本の伝統徒手武術と全く異なる武術としている。 堀辺は、骨法は奈良時代の武人、大伴古麻呂より伝わる日本独自の拳法としている。
野見宿禰当麻蹴速の対決が、現在の相撲と違い、激しい蹴り合いであったことを、古代より日本に拳法が存在した証拠とし、ここから相撲の起源であるとしている。奈良時代神亀3年に志賀清林によって「突く・殴る・蹴る」の三手が禁じ手にされたといわれ、一般的には古代の相撲の異称とされる「手乞」は禁じ手制定以前の、この武術の呼称であるとしている。純粋な武術を「手乞」・武術を応用した医療行為が「骨法」とする主張もある。
また、藤原宗忠の日記である『中右記』に「相撲が強いと言われているが、もっと骨法を身に付けなければ・・・」との意味の文章で源義家の家臣・大宅光房に対する批評を書いているが、これは「相撲が強いと言われているが、もっと基本を身に付けなければ・・・」と解釈されていたが、堀辺はこの記述を骨法という武術の存在を証明するものと主張している。
その後、源義光源義家の弟)が衰退していた骨法を復興し、彼の子孫に一子相伝で継承され、現在に至るものとしている(堀辺家は源義光の末裔と称する)。骨法のうち、堀辺家伝のものは司家骨法と称したとする。
堀辺は伝承された技をより実戦的に改良し、自ら流派の創始者を名乗っている。最初、家伝の武術の名称を「換骨術」としており、大東流合気柔術の佐川道場(堀辺は一時期、大東流の吉丸貞雄と一緒に独立[2]した後に「換骨拳」と改称し[3]、さらにその後に「骨法」に改称している。
堀辺によると、大伴古麻呂は「徹し」(とおし)とよばれる秘技を用いたという。これは中国拳法の浸透勁に似たものとされるが、古麻呂以後失伝しており、堀辺正史が現代に甦らせたと主張している。

骨法と称する他流派

堀辺正史の骨法とは無関係のものを含む。


九鬼神伝流(くきしんでんりゅう)とは、南北朝時代薬師丸蔵人隆真(やくしまるくろうどたかざね)より始まると伝えられる。

近代に至って、旧綾部藩主であった九鬼家の子孫の九鬼隆治が九鬼家の家伝と称し、九鬼隆治が1921年(大正10年)に設立した皇道宣揚会の武道部門で高松寿嗣が指導した。

ただし、実際は、高木流柔術・九鬼神流棒術の中極意(楊武館の角野寅太郎の元を去ったため皆伝ではない)であった高松寿嗣が高木流柔術と九鬼神流棒術をわずかに改変し、皇道宣揚会の教典であった偽書九鬼文書』やその中に収められている『天津鞴韜秘文』に基づく武術と称したものである。[要出典]


骨法 (格闘技)

玉虎流から転送)
骨法(こっぽう)とは、当身技を主体とする徒手武術のこととされる。ただし、隠し武器術である「骨法」(「強法」とも呼ばれる)や柔術の一部ではない、「骨法」という名称の独立した徒手格闘術が、日本武術の中に存在していたと主張するのは堀辺正史の系統のみである。

大きく2つの伝承に分類される。

中国起源説1

堀辺正史の系統以外の骨法の流派(玉虎流虎倒流古代骨法体術源流天心流など)は、中国武術が起源であるとしており、骨法が柔術等の日本の伝統徒手武術の異称のひとつであることも否定していない。 日本固有説を唱える堀辺正史(後述)は、著書『喧嘩芸骨法』の中で、「骨法が鑑真から学んだ中国拳法であるという説は、藤原仲麻呂によってでっち上げられた」としている。また、堀辺は著書で堀辺家には藤原仲麻呂と志賀清林を同一人物と伝える口伝があったと記している(ただし、この口伝については、堀辺自身が著書で「この二人が同一人物であったとは考えられない」と記している)。

中国起源説2

中国の姚玉虎から始まり、張武勝が日本に伝えた。[1]

日本固有説

これは現時点では堀辺正史の系統のみの主張である。堀辺によると、骨法は柔術等の日本の伝統徒手武術と全く異なる武術としている。 堀辺は、骨法は奈良時代の武人、大伴古麻呂より伝わる日本独自の拳法としている。
野見宿禰当麻蹴速の対決が、現在の相撲と違い、激しい蹴り合いであったことを、古代より日本に拳法が存在した証拠とし、ここから相撲の起源であるとしている。奈良時代神亀3年に志賀清林によって「突く・殴る・蹴る」の三手が禁じ手にされたといわれ、一般的には古代の相撲の異称とされる「手乞」は禁じ手制定以前の、この武術の呼称であるとしている。純粋な武術を「手乞」・武術を応用した医療行為が「骨法」とする主張もある。
また、藤原宗忠の日記である『中右記』に「相撲が強いと言われているが、もっと骨法を身に付けなければ・・・」との意味の文章で源義家の家臣・大宅光房に対する批評を書いているが、これは「相撲が強いと言われているが、もっと基本を身に付けなければ・・・」と解釈されていたが、堀辺はこの記述を骨法という武術の存在を証明するものと主張している。
その後、源義光源義家の弟)が衰退していた骨法を復興し、彼の子孫に一子相伝で継承され、現在に至るものとしている(堀辺家は源義光の末裔と称する)。骨法のうち、堀辺家伝のものは司家骨法と称したとする。
堀辺は伝承された技をより実戦的に改良し、自ら流派の創始者を名乗っている。最初、家伝の武術の名称を「換骨術」としており、大東流合気柔術の佐川道場(堀辺は一時期、大東流の吉丸貞雄と一緒に独立[2]した後に「換骨拳」と改称し[3]、さらにその後に「骨法」に改称している。
堀辺によると、大伴古麻呂は「徹し」(とおし)とよばれる秘技を用いたという。これは中国拳法の浸透勁に似たものとされるが、古麻呂以後失伝しており、堀辺正史が現代に甦らせたと主張している。

骨法と称する他流派

堀辺正史の骨法とは無関係のものを含む。

戸隠流

戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)は、忍術の流派のひとつ。伝説上の始祖は異勾という亡命中国人、歴史上の始祖は平安時代末期、戸隠山で修験道を学び、木曾義仲に仕えた仁科大助(戸隠大助)とされるが文献はない。木曾義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、伊賀流忍術をも取り入れて完成させたとされる。 現在の宗家は初見良昭
現存する忍術の流派の一つであり、世界中に支部道場を持ち門下生は10万人。日本より、欧米での弟子のほうが多い。 また、アメリカの総合格闘技大会UFC初期には、戸隠流の弟子(アメリカ人)が参戦していた。他にアメリカではCIAFBI格闘術として注目され、CIAとFBIの情報部員と捜査官は「戸隠流格闘術」の研修訓練修行を行っている。

2014年11月9日日曜日


武神館(ぶじんかん)は、日本の古武術道場。忍術、体術、武器術と幅広い武術を教えている。創設者は、忍術で有名な初見良昭。今では世界50か国に道場が存在し、多くの門下生がいる。武神館の武術は実戦的な事で有名であり、門人には世界各国の軍人や警察関係者も多い。
初見は「蒙古の虎」と呼ばれ、武術の達人であった高松寿嗣に師事し、15年間の修行を経て1958年(昭和33年)に九流派を受け継いだ。その後1970年代に千葉県野田市で武神館を起こした。
多くの武器を用いた練習も行っているが、普通は古流武術では教えない対拳銃用の技や拳銃を用いた場合の技も仮想敵対処として教えているため、一般市民が銃を持つ日本以外の文化圏の国でも護身術としても人気がある。戸隠流忍法体術玉虎流骨指術九鬼神伝流八法秘剣術虎倒流骨法術神伝不動流打拳体術高木揚心流柔体術義鑑流骨法術玉心流忍法雲隠流忍法の九つの流派を組み合わせて教えている。



https://www.youtube.com/watch?v=Y4EvdlaCBro


初見 良昭(はつみ まさあき、1931年12月2日 - )は、武神館(ぶじんかん)を創設した武術家。戸隠流忍術34代目継承者。忍術戸隠流の他に、
その他古武術は
と、合わせて九流派の宗家である。現在は「武神館九流派八法秘剣宗家」であり、日本伝統武道における最後の達人と謳われる。現在は武道家として国際的に活動している。千葉県出身。幼少の頃より空手、柔道(講道館柔道5段)、ボクシング古武道銃剣道など様々な格闘技・武道を修行。初め、天心古流上野貴に師事し、上野貴の師の一人であった高松寿嗣に27歳の頃に入門し、その後15年間古武道の修行に励む。1958年昭和33年)、高松から九流派を継承する。この九流派を統合したものを「武神館武道」と名づけ、道場を創設。増田専(柔道8段)に接骨技術を学ぶ。1964年昭和39年)放送のテレビアニメ『少年忍者風のフジ丸』の中の「忍術千一夜」という実写パートに出演。1967年公開の映画『007は二度死ぬ』の忍術指導をした。 1974年(昭和49年)には映画『直撃! 地獄拳』(東映)の忍術指導をした。
また、1988年(昭和63年)から放映された特撮テレビドラマ『世界忍者戦ジライヤ』では主人公の養父である山地哲山役で出演。この山地哲山の役回りは、まさに『戸隠流第三十四代宗家』というものであった。武芸考証家・演出家として東映やスタッフと縁があった事からの出演である。また、彼の弟子も本作には端役ではあるが、出演している。なお、声については長沢大アフレコで当てている。また、初見は武芸考証も務めた。
セルフディフェンスビクス発案に影響を与えたとされる。