2015年1月28日水曜日

岡田周三

岡田周三(おかだ しゅうぞう、1905~1983)は、マクロビオティック普及団体である正食協会の二代目会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一(正食協会初代会長)の熱心な門下生の一人として、大阪を拠点にマクロビオティック思想の啓発と研究、玄米食の推進、食生活を中心とした健康指導や、病気に苦しむ人たちの相談などの活動に打ち込んだ。

戦後、京都と大阪で桜沢を囲んでマクロビオティックの例会が開かれ、大阪で機関紙が発刊されるようになった。しかし、1953年に桜沢がマクロビオティック思想の根本である無双原理(PUと略されることもある。フランス語でPrincipe Unique)を海外に広めるべく、インドを皮切りとして5年間にわたる世界旅行に出発すると、活動が一時すたれた。
そこで、1957年に岡田周三が大阪府堺市の自宅を拠点として食養新生会を旗揚げした。大阪での活動は「PU運動」と呼ばれていたが、PUではなくわかりやすい「食養」を採用し、さらに以前「食養会」と称する団体があったことから、新しい時代にふさわしいものをと食養新生会と名づけられた。
1958年、食養新生会は月刊の機関紙「健康と平和」 を創刊する。同誌は世界旅行から帰国した桜沢から「関西での正食活動をもっと活発にしてほしい」という要望を受け、初代編集長となって創刊に踏み切ったも のであり、紙名は桜沢の発案。表紙の題字も、桜沢自身が筆を執った。創刊日は桜沢の誕生日、10月18日である。(なじみのそば屋に集まった食養新生会の 役員たちに配られ、喜びの中で新しい会誌の船出を祝った。) 月刊誌「健康と平和」はそれから、「正食」、「コンパ21」、ふたたび「正食」と誌名を変更し、2001年6月号の通巻501号より「むすび」となり、現 在も発行されている。
1969年、食養新生会は「世界正食協会」に改称する。
1983年、世界正食協会は現在の「正食協会」に改称する。

大森 英櫻

大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2005年(平成17年))は、マクロビオティック指導者。静岡県熱海市生まれ。普及団体である宇宙法則研究会の初代会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一の門下生のひとり。桜沢の指導哲学である無双原理を発展させ、動物性食品を一切摂取しない完全穀菜食を提唱した。夫人はマクロビオティック料理研究家の大森一慧。

概要

第二次世界大戦後、病弱な体で悩んでいた大森英桜は桜沢のマクロビオティックの著書と出会い、体質を改善した。 日本MI(日本CI協会の前身)で学んだ後、無双原理の正しさを自ら調べるべく、多くの病人と交流し自らも実践するなかで、桜沢如一の考えを修正し、小魚すら口にしない完全穀菜食が理想的な食事法であるという考えに至った。大森の完全穀菜食は桜沢自身からは認められたものの、日本MI(日本CI協会の前身)幹部のほとんどは否定的であった。[1]
晩年は日本CI協会とは一定の距離を置く形で、支持者らとともにマクロビオティックの普及団体である宇宙法則研究会を結成した。


久司 道夫

久司 道夫(くし みちお、1926年 - )は、アメリカ合衆国のボストンを拠点に自然食のマクロビオティックの研究、発展、普及に努めている。クシインスティチュートインターナショナル代表、久司財団会長、イーストウエスト財団会長、社団法人日本緑十字社社長。和歌山県新宮市出身。

概要

東京大学法学部政治学科卒業。同大学院国際政治学修了。
食養研究家・思想家の桜沢如一に師事したのち1949年11月にアメリカ合衆国へ渡り、コロンビア大学大学院政治学部に入学。アメリカ国内を起点としてヨーロッパ、日本などでも普及活動を行う。
1949年ごろから、道夫は食事をマクロビオティックの方向へ改めていく[1]。
1951年、アレクシス・カレルの『人間-この未知なるもの』を読み、人類の問題は食物と環境から起こることを再確認し、マクロビオティックの考え方に完全に呑みこまれたと述べている[2]。
1960年代に、高島屋がアメリカに進出したが、道夫はレナウン創立者のすすめで副社長となって開店を手伝った[3]。
1966年、ボストンに自然食品店エレホンを開店させるにあたって、訳語として natural food erewhon と看板に掲げ、そして natural foods という単語が世界中に広まっていった[4]。自然食品店エレホンでは、有機農業を支援しながら有機食品を販売し、豆腐や味噌をはじめとしたあらゆる日本の伝統食品も販売していった[5]。
1969年、自然食品店エレホンの支店をロサンゼルスに開く[6]。
1976年、ジョン・レノンが道夫に会いに来る[7]。(ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1980年のPLAYBOYのインタビューで、食事はほとんどマクロビオティックだと応え[8]、マクロビオティックの料理番組に出演したこともあった[9]。)
1988年、世界保健機関の大会で「マクロビオティックによるエイズ治療」という講演を行った[10]。
コンビニエンスストアのローソンの幹部がローソンを変えようとしたとき、幹部に健康指導をしたことがきっかけとなってローソンを変えるための指導をすることになり、これがナチュラルローソンにつながっていった[11]
1994年 「世界の平和と人類の健康に貢献した」として、国連著作家協会優秀賞を受賞 [12]
1999年アメリカで活動が認められ、米国国立歴史博物館「スミソニアン」に、久司道夫のマクロビオティックの代表的な出版物や資料がクシファミリーコレクションとして永久保存され、展示される [13]。
1999年 米国国家下院にて、久司道夫の業績を公認する決議が行われる 。[14]。
長年マクロビオティックを実践していた夫人は癌によって死亡したが、がんを発見したとき、当初は余命3か月と診断されたが久司道夫のアドバイスにのっとった食事をはじめ、そのため[要出典]8年を生き延びた。
久司道夫本人も2004年に結腸癌を発症し手術を受けている[15] 。しかし、久司道夫本人は高齢になっても世界各地を飛行機で移動し、一年の大半をホテルで暮らし、外食がほとんどで、マクロビオティックを実践できていない。留守を守っていた夫人も、日夜を問わず訪れる重病患者の相手に追われるなど大変多忙な暮らしであったという[要出典]。
2007年 米国国会下院にて、久司道夫の生誕80年を記念して、業績の顕彰決議が行われる。[16]


奥山 治

奥山 治(おくやま おさむ、1918年(大正7年)1月31日 - 2000年(平成12年)3月18日)は東京都・青ヶ島村の村長を五期17年3か月間務めた人物。生涯において玄米自然食(マクロビオティック)の普及に務めた。東洋哲学の思想家。

来歴

奥山治の出生地青ヶ島は、1785年(天明5年)天明の大噴火で全島民が避難し無人島になった。絶海の孤島の中で、その後五十年もの歳月をかけ、1835年(天保6年)避難先の八丈島から独力還住(全島民帰還)を果たす祖先達を指導したのが佐々木次郎太夫である。柳田國男は佐々木次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と称えている。
奥山治は、島の名主と なった佐々木次郎太夫の末裔である。故に名前も「治」である。奥山治の時代も、次郎太夫同様に僻地・離島の総引揚げが国策として推進された時代であった。 村議会議員時代を含め通算27年に亘り、島の総引き揚げに抵抗し、島の発展に尽くしたことから「現代のモーゼ」と称えられている。

人物評

三人兄弟の末弟として生まれる。1938年(昭和13年)3月、旧制・東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業。
桜沢如一の門下となり、玄米食運動(マクロビオティック)や世界政府運動の活動に熱中する。兄弟弟子に久司道夫、田中波留子(フローラ)らがいる。戦況が激しくなったため、桜沢如一の命により門下生一同は戦争が終わるまでそれぞれの故郷へ帰ることとなった。
奥山治は帰郷後、八丈島、青ヶ島の国民学校の教員を務めたが、やがて1945年(昭和20年)終戦を迎える。英語が多少ともできた由縁もあり武装解除に訪れた合衆国将軍より、青ヶ島の名主の末裔として島の政治、経済、文化の全権を委任され、事実上島の全権を掌握する指導者となった。
以来、奥山治は、地方自治法(公職選挙法)除外地域時代、つまり1947年(昭和22年)以前においても実態は統治者で村長であり、27年に亘る政治活動の中で、次々に村民の悲願を実現してきた。
温厚誠実にして品行方正、清廉潔白にして自由闊達な性格を身上とし、卓抜なる政治的識見と指導力は高く評価され、広く深く村民の信望を得た。

村長事績

奥山治は、村長就任直後に青ヶ島の抜本的基盤(生活・産業)の確立を旗印に膨大な「青ヶ島開発白書」を公表し、青ヶ島の開発振興についての所信を明らかにした。1965年(昭和40年)まで電気がなくランプで、1978年(昭和53年)まで水道がなく雨水タンクでという、遥かに立ち遅れた村民の生活状況であった。
奥山治は、自らの白書に従って東奔西走し粛々と公約を実現させてきた。
農道・村道・都道の整備、発電設備、全家庭灯電、三宝港開港(突堤桟橋建設)、船便航路、連絡船建造、三宝港ウインチ荷揚げ設備、産業振興、診療 所、保育園、小学校、中学校、体育館、図書館、村民住宅、集会所、老人福祉館、村役場庁舎、山斜面雨水集水式簡易水道(全家庭水道化)、大千代港開港、ダ イヤル電話開通、年金受給等、そのマニフェスト達成実績は枚挙に暇がない。
奥山治は、日本の僻地・離島が自らの故郷を捨てさせられた当時、孤軍奮闘し青ヶ島の生活と文化と暮らしを守りきった。1979年(昭和54年)後進に託し奥山治は村長を勇退している。

思想

奥山治は、離島である青ヶ島村開発の最終目標は、恒久自立であり、且つ格差のない村民生活基盤の抜本的確立でなければならないとして、27歳にして本格的に政治家としての活動に入った。
当時の青ヶ島には完備された漁港がなく、豊富な海産資源も他県や他島により乱獲されていた。陸上産業・農業資源の乏しい青ヶ島は、このままでは多額 の公費を投じた公共施設も、空しく自滅してゆくか、または島を挙げて島外転出を選ばなければならない断崖絶壁の岐路に立たされていた。
同じ運命にあった東京都・八丈島・八丈町の八丈小島は1969年(昭和44年)人の住まない無人島と化している。しかし、遥か先祖伝来あらゆる苦難・困難を克服してきた島民達が自滅や島外転出を求める理由は何一つなく、奥山は青ヶ島の恒久自立の道はただひとつ、抜本開発か、若しくは日本国から独立し治外法権を取るかの二者択一しかないと考えた。
奥山治は、地下足袋姿で度々上京し、青ヶ島の現状を東京都庁前で断食をしながら陳情した。

出典・参考文献

  • 「日本の首長 生い立ちから抱負まで」48P~50P「東京都青が島村 奥山治 島の救世主に拍手」草薙書房1981年(昭和56年)8月30日発刊
  • 「元青ヶ島村長 奥山治 功績調書」 青ヶ島村長(佐々木宏)1991年(平成3年)2月20日発行



石塚 左玄


石塚 左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日(1851年3月6日) - 明治42年(1909年)10月17日)は、明治時代の日本の軍医・医師・薬剤師。玄米・食養の元祖で、食養会をつくり普及活動を行った。
福井藩(現福井県)出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」[1][2]と食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。
栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという[3]。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった[3]。天皇家の献立は食養学に基づいている。

  • 1851年(嘉永4年)2月4日(旧暦)、福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。元禄赤穂事件で有名な大石良雄の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病と重症の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。12歳で医者としての評価があったという。
  • 1868年(明治元年) 18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んでいる。
  • 1869年(明治2年) 福井藩助句読師となる。
  • 1870年(明治3年) 福井藩病院調合方になる。
  • 1871年(明治4年) 同郷の橋本綱常を頼って上京。
  • 1872年(明治5年) 東京大学南校科学局で御雇になる。
  • 1873年(明治6年) その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医薬局の助手を務める。
  • 1874年(明治7年) 陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
  • 1876年(明治9年) 陸軍の薬剤監補に任命される。
  • 1877年(明治10年) 陸軍の薬剤監副に任命される。
  • 1881年(明治14年) 陸軍の薬剤監に任ぜられる。
  • 1892年(明治25年)頃には食養が普及し、「双塩会」という食養の実践団体があった。
  • 1894年(明治27年) 薬学会誌に、"人類は穀食動物なり"、"飲食物化学塩類論"、"飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり"を発表する。
  • 1895年(明治28年) 薬学会誌に、"食物中の夫婦アルカリ性質論"、"入浴は亦人体の脱塩法なり"を発表する。
  • 1896年(明治29年) 『化学的食養長寿論』を出版した。
  • 1898年(明治31年) 大衆向けの『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』を出版した。 この頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国から患者が殺到するようになっていた。
  • 1907年(明治40年) 「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政治家や財閥なども多くいた。
  • 1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。

石塚左玄の食養学

  1. 食本主義[4] 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄にするには食物を清浄にすることである[5]。
  2. 人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は穀食(粒食)動物なり」[6]とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るような自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。または穀食主義[4]。人間の歯は、穀物を噛む臼歯20本、菜類を噛みきる門歯8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であるという天性をつくす[7]。
  3. 身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をとる[8]。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。
  4. 陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバランスが崩れすぎれば病気になるとした[9]。ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウムの多いものは野菜・果物と植物性食品となる[10]。しかし、塩漬けした漬け物や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い[11]。精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によって陰陽のバランスくずれ、病気になる[12]。
  5. 一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。「白い米は粕である」と玄米を主食としてすすめた[13] 。

食育

智と才は食養に関係する[14]。 智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少ない食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした[15]。
軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランスに注目する[16]。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する[17]。 幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍耐力や根気を養う。また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短くなってしま う。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つように食養する。

 著作 

  • 石塚左玄 『検尿必携』 長瀬時衡、島村利助、東京、1876年6月。
  • 石塚左玄 『鑑薬精義』 陸軍文庫、東京、1876年12月。
  • 石塚左玄 『飲水要論』 石川良信、静思堂、東京、1880年8月。
  • 石塚左玄 『飲水要論』 石川良信、静思堂、東京、1884年8月、増訂2版。
  • 石塚左玄 『飲食品化学的塩類論』 馬淵延三郎、東京、1894年。
  • 石塚左玄 『[40058708 化学的食養長寿論]』 博文館、東京、1896年6月。
  • 石塚左玄 『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』 博文館、東京、1898年1月。
  • 石塚左玄 『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』 三省堂、東京、1909年12月、増訂7版。
  • 石塚左玄「食物養生法」『近代日本養生論・衛生論集成』 第12巻、大空社、1992年。
  • 石塚左玄 『礼義廉耻の食養論』 石塚左玄、東京、1904年1月。
  • 石塚左玄 『食養道歌俗解』上巻、莵道春千代、食養新聞社〈食養叢書;第1編〉、東京、1906年7月。
  • 石塚左玄 「食養談」『実験心身健康談 』 有楽社、1907年11月。
  • 石塚左玄 『食医石塚左玄の食べもの健康法-自然食養の原典「食物養生法」現代語訳』 橋本政憲訳、農山漁村文化協会〈健康双書ワイド版.食と健康の古典;6〉、2004年3月。ISBN 978-4540033360。

参考文献

  • 桜沢如一 『石塚左玄-伝記・石塚左玄』 食養會、1928年6月。
  • 桜沢如一 『石塚左玄-伝記・石塚左玄』 日本CI、1974年6月、復刻版。
  • 桜沢如一 『石塚左玄-伝記・石塚左玄』 大空社〈伝記叢書;158〉、1994年11月、複製版。ISBN 978-4872364576。
  • 沼田勇 『幕末名医の食養学-いま甦る「石塚左玄」の粗食健康法』 光文社〈光文社文庫.美と健康シリーズ〉、1993年1月。ISBN 978-4334716462。
  • 沼田勇 『日本人の正しい食事-現代に生きる石塚左玄の食養・食育論』 農山漁村文化協会〈健康双書〉、2005年3月。ISBN 978-4540042959。
  • 横田哲治 『天皇家の健康食』 新潮社、2001年12月。ISBN 978-4104502011。
  • 持田鋼一郎 『世界が認めた和食の知恵-マクロビオティック物語』 新潮社〈新潮新書〉、2005年2月。ISBN 978-4106101052。
  • 田中聡 『怪物科学者の時代』 晶文社、1998年3月。ISBN 978-4794963468。
  • 『癒しを生きた人々-近代知のオルタナティブ』 田邉信太郎,島薗進,弓山達也、専修大学出版局、1999年10月。ISBN 978-4881251096。



桜沢 如一


桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、生来はにょいち。1893年10月18日 - 1966年4月24日)は、思想家・食文化研究家。
マクロビオティックの提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。

経歴

和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士の家系に生まれる。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1]石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。1924年には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウム・カリウムのバランス論」を易経の陰陽に当てはめた無双原理を提唱。1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリのVrin社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。1937年に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。 1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観的な真偽不明)。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫、大森英桜、岡田周三、菊池富美雄らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞。



2014年11月28日金曜日


ある街の夏祭りに、流派の披露の機会を頂きました。先ずは主宰の基本の型です。
必ず、大刀・脇差を手挟むのが基本です。

 [知心流の沿革]
 源流は遠く、貞和年間(1345年~1350年)新田武蔵守義宗公に始まり、以後会津の木崎氏、更に東播磨西山庄佐々倉左馬之介源清信に引き継がれた。
 1600年初めの古文書に「心を知ること剣の法なり」ということばが見られるが、ここから「知心流」を流派名としたようである。
 この間現代の13代宗家松平正親先生まで、一点一画を崩さず連綿として引き継がれている。
流派の印可状は昔は墨書であったが、現在は殆どが印刷である。
 知心流は未だ宗家の墨書、花押の見事な筆跡のものである。

主宰と宰嗣による袋竹刀による組太刀
本来は素面、無籠手で木刀による自由稽古が普通である。
会場の床がコンクリートであり、摺り足が出来ないためこの稽古になった。
木刀は全身の寸止めで行うが、袋竹刀は面以外は寸止めをしない。
演技後、主宰の腕には青あざが認められた。

宗嗣による知心流中伝の型。真剣の刃鳴りが会場の空気を裂く
鎧着用を想定した型なので、腰の位置、重心は低い。

[出典]
http://blog.livedoor.jp/suzugatake/archives/954123.html



古武道の揺籃Ⅱ
 知心流伝承道場知心五行派刀流の稽古始めが、今年も十日に野田市にある大野主宰の道場で行はれた。
 一子相伝として伝えられてきた知心流も、大野主宰は来る者は拒まず、門戸を広げて活動している。
 道場の階段脇には、見やすい高さで入門案内書が掲示してある。
 主宰は教師剣道七段、知心流十三代宗家から流派の名乗りを許されている。宗嗣は剣道四段、宗家から知心流中伝の允許を受けている。
 允許状は古来の形式に法り、和紙に墨書花押のものである。
 宗嗣の修行は凄まじい。毎日の修練のほか、年に数回山篭りの荒行をする。寝袋と僅かな糧食を携行して山に入り、昼間僅かな仮眠をとり、夜を徹して暗夜に木剣を振る。
 樫の木剣で生木が倒れるまで打ち込み修行を積む。
 山を降りるときは体重は五、六キロも減量するそうであるが、全身将に鋼である。
 赤城鈴ヶ岳山麓の鎌倉街道探索の折は、急斜面を登る我々の面前を息も切らさず往復して足腰を鍛えている。
 知心流の稽古は全員脇差を手挟み、大刀を佩く。型の稽古は真剣で行う。
 面切り、袈裟切りの刃鳴りは空を切り裂き、凄まじい刃鳴りが深閑の道場に響く。
 日本刀の刃鳴りは、圧搾された空気が一気に両断されるときに鋭く短い刃音を残す。横一文字の円切りは、ビュウンと腹に応える。
 切っ先が円形になっており、遠心力による刃の速さは目に残らない。
 鍛錬された剛柔の流れるような重心の移動に聊かの無駄が無い。緩やかにも、中断を許さぬ鋭い動きに、気迫が充満している。
 何時の間にか、見学している我々の五体が身動きを忘れるほどに、その迫力に制約されている。
 納刀してから訪れる眼前の空気と五体の溶解、そして演技者の残心の手の内はまだ一部の隙も許さない。
 流派の完成された技の極致である。
続いて稽古着に鉢巻の姿で、木剣による自由組立ち稽古に入る。勝負の寸前に手の内を絞り、寸止めを行う。これは高度の技である。
 この稽古は高段者により行われる。
 まともに打てば骨を絶つ稽古である。稽古とはいえ、一瞬の油断を許さない。 
 時には勢いで、木剣が肉に触れる。
 空中で切り結ぶ樫の乾いた音が数合響き、瞬時に体が入れ替わる。
 磨き込まれたあめ色の床を、能舞台を滑るような足捌きで木剣が唸る。無駄の無い俊敏の動きの中で、常に体勢、構えは全く崩れることは無い。
やがて、両剣士の額に汗が滲む。息を飲むほどに、じつに濃密な稽古が続く。
 知心流は、遥か昔、流祖が完成した全ての型について、一点一画を揺るがすことなく、日々の練磨を重ねて現在に伝えている。
 その奥義を極め、さらに自らの五体に刻まんとする信念と意思が道場に充溢し、観ている我々を圧倒するのである。
 稽古が終わり、藤田東湖が愛した美禄の時間がきた。
 道場の中央に置いた座卓を囲み、奥さん手作りの摘みで盃を挙げる。
   君杯を挙げたまえ、今宵も美禄一壺の酒
 日本酒のある風土、日本は有り難い国である。

[出典]
http://blog.livedoor.jp/suzugatake/tag/古武道の揺籃Ⅱ


2014年11月20日木曜日


花秘する、秘せずとも花なり。あさはかなりし似非もののふの、端の入り口に立ち


2014年11月18日火曜日


知心流(知心正統派刀流)、知心正流(前備相伝家)、知心不動派刀流、知心流五行派刀流、などなど。ほっといた間にだいぶ増えたもんだな。伝系不明。総口伝伝承形式。こやつめ、ハハハ。

[出典]
https://twitter.com/kawamurakeishin/status/224889225131200512


現在まで命脈を保っている居合の流儀を紹介する(明らかに復元・創作とわかるものは除外)。


1 林崎夢想流(神夢想林崎流)  青森・東京・新潟。山形は絶伝か。
2 影山流 宮城・福島。 失伝した形が多い。
3 無双直伝英信流・夢想神伝重信流・長谷川流・大森流  全国。
4 夢想神伝流  全国。 ただし古流に含めるかは問題あり。
5 伯耆流  熊本・大阪他。
6 関口流  和歌山・熊本・岐阜・静岡・東京・茨城・愛知他。
7 田宮流  神奈川他。正式には田宮神剣流。
8 制剛流(新陰流)  愛知他。
9 新影流  福岡。
10 民弥流  富山・石川・埼玉他。
11 新田宮流  茨城。
12 香取神道流  千葉・神奈川・静岡他。
13 神刀流  東京他。
14 荒木流  群馬・山梨。
15 荒木無人斎流  兵庫。
16 柳生心眼流  愛知・宮城。
17 竹内流  岡山。
18 興神流  石川。
19 貫心流  島根。
20 水鴎流  静岡。
21 神変自源流  兵庫、埼玉。
22 円心流  大阪他。
23 心形刀流  三重・東京他。
24 知心正流  東京。
25 無外流  全国。
26 立身流  千葉。
27 神道無念流  青森・東京・埼玉・兵庫・山口・長崎他。
28 山本流  東京。
29 信抜流  広島。
30 自剛天真流  福岡。
31 初実剣理方一流  岡山
32 鐘捲流  岡山
33 竹内判官流  関西
34 双水執流  東京

[出典]
http://japanbujut.exblog.jp/21305749


2014年11月13日木曜日


西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。



会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれた。3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移住。16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となり、福島県伊達郡霊山町の霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられた。
1882年(明治15年)上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校(新宿区原町)に入学、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍する。1883年(明治16年)に初段を取得。
1886年(明治19年)の警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝ったことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。西郷はこの試合で戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎とする文献もあり)に勝ち、勝利に貢献した。
西郷の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた関係で影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため、相手の足を刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かったと言われる。その技は嘉納治五郎に「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、西郷が大東流を学んだ形跡はなく、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。
1889年(明治22年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、嘉納が洋行中の1890年(明治23年)、『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。以前から交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。
1902年(明治35年)、鈴木天眼が長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める傍ら、長崎で柔道、弓道を指導した。また、長崎游泳協会の創設に鈴木天眼とともに関わり、同協会の監督として日本泳法を指導している。
1922年(大正11年)12月22日、病気療養のため滞在していた広島県尾道で死去。没後、講道館から六段を追贈される。
1923年、嘉納は西郷の碑に「講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ 依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績を表ス」と刻んでいる。
小柄で強い柔道家を「○○の三四郎」と呼称するのは、西郷四郎がモデルとなった『姿三四郎』の影響である。四郎自身の体格は、身長が五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)だったと伝わる。

大東流合気柔術との関係

大東流合気柔術の主張する伝承史によると、西郷四郎の養父である頼母は、武田惣角に会津藩に伝わる大東流合気柔術(合気道の 元となった武術)を伝授したとされている。このことから、頼母の養子である四郎も、何らかの形で養父から大東流合気柔術を伝授されたとし、四郎を開祖とす る武術団体(西郷派大東流合気武術など)が存在しているが、近年の武術史研究では、四郎が大東流合気柔術を学んだ物的証拠が存在しないことが証明されてお り、この説は否定されている(詳しくは大東流合気柔術の項を参照の事)。

モデルとしたフィクション

小説
映画
  • 柔道一代シリーズ - 西郷をモデルにした本郷四郎 (演:千葉真一) を主人公にした作品
漫画
 
 
 

嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月9日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵庫県平民[1]。
講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。

生い立ち

1860年12月9日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治朗作である。初め治作は治朗作に家を継がせようとしていたが治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って幕府の廻船方御用達を務め和田岬砲台の建造を請け負い勝海舟のパトロンともなった。柳宗悦の義母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれる現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別される。
1873年(明治6年)、明治政府に招聘された父に付いて上京し、東京にて書道・英語などを学んだ。

柔道創始

1874年(明治7年)、育英義塾(のちの育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり柔術は全く省みられなくなり、師匠を探すのにも苦労し柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。窮理の徒である治五郎らしい話である。
1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。
1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。
1883年(明治16年)10月、起倒流皆伝。治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜し大東流合気柔術(後に合気道を開く)の植芝盛平[2]や神道夢想流杖術の清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ(雑誌『新武道』によるとこの薙刀術が1941年(昭和16年) - 1942年(昭和17年)頃の国民学校の標準となったと記されているが国民学校令施行より以前に既に大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記述の正確性には疑問が残る)。
1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される[3]。

教育者として

嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学なお、筑波大学キャンパス内にも立像が建っている。)校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた[4]ほか、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長などを務め(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、さらには、嘉納自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。
また中国人留学生の受け入れにも努め、牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中華人民共和国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた。また旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)と交流している。
1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(東洋大学の前身)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用される。

スポーツ

日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。
1911年(明治44年)に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。
1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。

死去

1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜る。墓所は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園に在る。

エピソード

  • 1891年(明治24年)1月、欧米視察より帰国する船上でロシア人士官に挑まれこれを投げた。同年4月10日の讀賣新聞がこの記事を掲載した。

弟子

四天王

その他の主な弟子

他にもたくさんの弟子が居る。

モデルとしたフィクション

小説
映画
  • 柔道一代 - 嘉納をモデルにした香野が登場する



大東流と合気道

合気道の創始者、植芝盛平(1883-1969)は、武田惣角の高弟の一人でした。惣角が植芝に多大な影響を与え、大東流は合気道の源流であると言っても過言ではありません。 武田惣角と植芝盛平は、大正4年(1915)北海道遠軽の地で、初めて出会いました。惣角の技に驚嘆した盛平はすぐさま惣角の門人となり、 大東流を約5年間熱心に修行しました。盛平の大東流に対する執心ぶりは、和歌山県田辺市からの開拓団員たちと住んでいた北海道白滝村に武田惣角を呼んで住まわせるほどでした。 惣角は盛平の家に一時期身を寄せ、大東流を盛平に教授しました。大正8年(1919)後半、盛平は父の病気の知らせを受けて、 家と家財道具一式を惣角に残して急いで白滝を去りました。
クリックで拡大 その後、惣角と盛平は大正11年(1922)、惣角一家が盛平の綾部の家に約6ヵ月間過ごすことになって再会します。 当時大本教団に所属していた盛平は大本教の出口王仁三郎のすすめもあって、自宅内に道場を建て大東流を教えていました。 綾部での滞在の終わりに、惣角は、惣角に代わって大東流を教授できる「教授代理」を盛平に授与しています。後に植芝は、当時、 大東流の最高の免許証であった解釈総伝証を授かりました。二人の関係が以前ほど緊密でなくなってからも、その後の10年間には数回顔を会わせています。
歴史資料によると、植芝は、およそ20年間にわたり大東流を稽古していました。その後、徐々に変更を加え、ついに合気道を形成するにいたりました。
 
 
[出典]
http://www.daito-ryu.org/jp/daitoryu-to-aikido.html
 
 
 

武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者[注釈 1]。

 


生涯

生い立ち

会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内伝五郎の娘・富。惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。
惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。

青年期

13歳の時、父を説得して上京し、父の友人であった直心影流剣術の榊原鍵吉の内弟子になった[注釈 2]。東京府内の各剣術道場で他流試合を重ね、剣術の他、棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、弓術なども学んだ。
10代後半のとき、兄の武田惣勝が若くして亡くなったことにより、武田家を継ぐために呼び戻されたが、家を飛び出して西南戦争の西郷隆盛軍に身を投じようとした。しかし叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行した。
明治21年(1888年)、福島県会津坂下町でコンと結婚し、明治22年(1889年)に長女テル、明治24年(1891年)に長男宗清が生まれた後は、また実家を出て放浪の身となった。
明治36年(1903年)、北辰一刀流の剣豪・下江秀太郎と剣術の試合をして、勝ったとも引き分けたともいわれる[注釈 3]。

大東流普及

一説によると、明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた保科頼母から「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の修行を始めたというが、この伝承史については近年の武術史の研究と調査でほぼ否定されている。
惣角は生涯、道場を持っての教授を行わず、請われれば何処にでも出向き、年齢・出身・身分の差別無く大東流合気柔術の技法を広めた[注釈 4]。明治31年(1898年)以降については、英名録と謝礼録という記録が几帳面につけられているため、いつ、どこで、誰に武術を教授したか、かなり詳細な記録がある。また、全国行脚の最中に様々な他流試合や野試合(いわゆるストリートファイト)を行い、大東流合気柔術の実戦性を証明した。
明治37年、北海道を縄張りとし、樺太から東北六県、新潟から東京まで勢力を伸ばしていた丸茂組を単独で制圧する。
大正4年2月、惣角の門人・吉田幸太郎により、植芝盛平が入門。
昭和4年、海軍大将竹下勇が実話雑誌に、「武田惣角武勇伝」を発表。
昭和5年夏、東京朝日新聞記者尾坂与市が取材。「今ト伝」と称する紹介文が新聞に掲載。
昭和11年4月20日、埼玉県浦和警察署で講習会を開催。
昭和11年夏、大阪朝日新聞社の武道教授に就任。

晩年

大正元年(1912年)頃、弟子であった山田スエと北海道で再婚し、武宗、たえ、時宗、榮子、宗光、しずか、宗吉の4男3女をもうけた。以後、北海道を本拠地とするようになった。そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に青森県で客死した。享年84。

家系

武田家の来歴、会津藩での地位、惣角の幼少期から青年時代までの経歴については明確な文書記録が非常に乏しく、疑問視する見解も多い。一方で、先祖代々同じ土地に土着する家系が多くを占める農村部の地域社会では、地域の出来事は100年、200年と地域住民で口伝されるため、根拠のない作り話も難しい。武田家や大東流の伝承のすべてが真実でないとしても、何か、話の種となる事実があったことは想像に難くない。

祖先

清和源氏の甲斐武田氏の系譜。武田信玄が亡くなった翌年、武田氏と親交があった会津の蘆名氏に協力を求めるため、武田氏から蘆名氏に、武田国継が武田信玄の遺書を持って遣わされた。しかし、織田信長と徳川家康によって甲斐武田氏が滅ぼされてしまい、武田氏の血脈を残すために武田国継はそのまま会津に留まり、織田信長による武田の残党狩りを逃れるため、三浦平八郎盛重と名乗った。会津の蘆名盛氏に地頭として仕えた。
また、武田国継は会津で西光寺を建立している。惣角はこの武田国継の子孫である。その後、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と会津の領主は変遷したが、武田家は会津に留まり、蘆名氏、蒲生氏、加藤氏、そして会津松平氏(保科氏)に仕えた。江戸時代には藩士ではなく神職や指南役として仕えたともいわれる。
  • 蘆名氏は桓武平氏の三浦氏の支族であり、三浦は蘆名氏の本姓である。また、西光寺を建立したり、会津入りしたときの持参目録の伝承から、甲斐国からまとまった資産を持参した可能性もある。
  • 保科氏(会津松平氏)は、甲斐武田氏の有力な家臣であった家系。

祖父・惣右衛門

惣角の祖父・武田惣右衛門は、幕末に会津藩家老・西郷頼母に御式内と陰陽道を教授した。また城内でも御式内を教授したという。京都の土御門家から内匠頭の官名を受けた陰陽師でもあった。諡は武老翁神霊。

父・惣吉

武田惣吉(文政3年(1820年) - 明治39年(1906年))は、会津藩士であり、宮相撲の力士であった。四股名は白糸。剣術、槍術、棒術、柔術の達人でもあり、小柄な武田惣角とは違って巨漢であった。武術にも学問にも堪能で、武田屋敷に隣接する西光寺に寺子屋を開くとともに、自宅の土蔵を道場に改築して武術や相撲も教えていた。元治元年(1864年)の禁門の変では手柄を立て、藩主松平容保から恩賞を受けた。戊辰戦争には250名を預かる力士隊の隊長として参加している。会津戦争では西郷頼母の隊に所属し、会津藩降伏後は越後国の高田藩預かりで1年半を過ごした。明治期には宮相撲の年寄り親方として相撲番付に名が残っている。諡は惣吉神霊。

兄・惣勝

武田惣勝(嘉永2年(1849年) - 明治9年(1876年))は、武術・学業を修めて神職に就いたが、若くして亡くなった。これにより惣角は武田家を継ぐために会津坂下町に呼び戻されたが、実家に落ち着くことはなく、放浪の身となった。実家は惣角の弟が継いだため、惣角の家系は分家となった。

子孫

惣角の長男・武田宗清は、会津坂下町に残り、惣角から学んだ系統の大東流を教授した。
惣角の三男・武田時宗は初め北海道警察に勤務し、後に山田水産に勤務。その傍ら、北海道網走市に大東館を開き、第36代宗家・佐川幸義から大東流合気武道宗家を継承した。時宗には後継者たる男子がなく、晩年、体調を崩してから娘の横山信子を次期宗家として発表したが、まもなく大東館は後継者問題で混乱し、分解してしまった。
宗清の曾孫・武田宗光は現在も会津坂下町で大東流合気柔術教室を開いている。宗光は、初め会津坂下町で宗清が父の惣角から学んだ系統の大東流を祖父 から指導されたが、後に時宗やその高弟の指導も受けている。時宗は山田水産を定年退職後、網走市から会津坂下町に通って宗光に指導する事もあった。

エピソード

代筆
幼い頃に寺子屋に行くことを嫌い、「自分は一生字を書かない。他人に書かせる立場になる」と誓ったため、字が書けなかった[1]。父の惣吉は「お前のために字を書く者がいるか」と怒ったが、後に裁判官、警察署長、陸海軍高官など社会的地位の高い人物が惣角の弟子、あるいは後援者となり、弟子達に代筆をさせていた。但し後に弟子による証言によると、文字を読むことは出来た様で、新聞を読むなど最新知識の取得に熱心であった。
猜疑心
猜疑心が強く、隙を与えることを嫌った。食物は相手が毒見をするまで食べなかったという。息子の武田時宗を伴って剣道家の高野佐三郎の家を訪ねた際も、差し出された菓子を食べず、時宗が高野の前を歩くと「高野に後ろから抱きつかれて刺されたらどうするんだ」と叱った[2]。時宗が「まさか高野先生が」と言うと、「まさか、まさかと言って皆殺されている。それが分からないなら帰れ」とひどく叱られたという。
手裏剣術
惣角が手裏剣術を教えているとき、足が動かない者が笑った。惣角が「何が可笑しい」と問うと生徒は「そのような尖ったものは突き刺さって当然だ」と言い、おもむろに硬貨を出し柱に投げた。硬貨は柱に刺さり、惣角はそれを見てから手裏剣術を教えることはしなくなったという。
井上鑑昭との関わり
親英体道の創始者である井上鑑昭が幼少(本人の談によると12歳)の頃、叔父である植芝盛平(合気道の創始者)に連れられて大東流の稽古を 見学した。惣角から「坊、一緒に稽古せえ」と勧められるが、井上は「ワシはおっちゃんの稽古嫌いやから嫌や、おっちゃんの稽古しても役に立たんし強ならへ ん」とあからさまに大東流の稽古法を否定された(傍らでそのやりとりを見ていた植芝盛平が、逆に顔面蒼白になったという)。しかしそんな生意気な井上少年 に対し、惣角は一切叱ることはなく、「そうかそうか」と笑って許したという[注釈 5]。
服装
外見をおぎなうために、羽織袴に山高帽をかぶり、高下駄をはいていた[4]。二・二六事件後、右翼団体が横行し時代が緊迫する中で、暴徒に襲撃されたときに見苦しい死にざまをさらさないために、門人が寄贈した三尺五寸(約150センチ)の鉄杖をつき、腰に脇差を差すようになった[5]。

武田惣角が登場する作品